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メンヘラの誕生

なぜメンヘラは本人も苦しみ、そして周りを消耗させ、人生がうまくいかないのか?家庭や職場にいるメンヘラにより苦しんでいる方々、もしくは自覚しているメンヘラの方々に贈るメンヘラの誕生とその原因。

メンヘラとは?

メンヘラにはちゃんとした定義はない、某掲示板で生まれた造語であるが、広く一般大衆にも浸透している。
それはおそらく、精神的に問題のある女性というイメージであろう。
情緒不安定で一貫性がなく、他人を振り回し、依存し、勝手に自己を追い込んだ挙げ句それはすべて他人のせい。
今から論ずるメンヘラとは、このように精神的に何かしら「普通」とは違う特性があり、なおかつその特性により自己及び他者に不利益を与えつつ、しかもそれを自覚している事とする。
故に統合失調症などの精神病や所々の神経症とカテゴリーは同じではあるが、あくまでも一般社会で表面上は「普通」に暮らしているが、自己とその周囲に不利益を与えている人を指すこととする。

メンヘラの誕生

メンヘラの要因は、育成環境(と遺伝的要因)である。
その根拠の前に、現在の社会を定義しなくてはならない。
現代社会は、非常に非人間的環境である。コンビニで並んでいる美味しそうな食べ物をその場で食べたり、魅力的な異性を見つけて飛びついたり、借りた金を返さなかったり、免許無しで車を運転すれば法によって裁かれてしまう。
人類の歴史の99%は原生の自然の中で小規模の集団を率いて獲物を狩ったり植物を採集して生きていた。
ほんの数千年で文明を起こし、官僚制度に支配され、名前も知らない他人と肩を並べて満員電車に揺られている。
シンプルにホモ・サピエンスの進化が文明の発達に追いついていない。
人間の脳は、原生自然で小集団で獲物を狩ったり植物を採集して生きるようセッティングされたままである。
では、豊かで安全だが複雑すぎる現代社会に生きるためにはどうしたらよいか?
それは矯正である。学校教育はまさに教育という名の矯正であり、自然を駆け回っているはずの本能を45分間椅子に縛り付けられても発狂しないように矯正しているのだ。
ここまでの矯正はこの100年の出来事であるから、逆に言えば義務教育は9年間も必要なのである。
日本を例にしよう。戦前までであれば、ほとんどの日本在住民は小規模のムラ社会の中だけで人生は完結しており、親の仕事を継ぎ、親の人生を繰り返すだけであった。
故に現代社会のような自由はないが、ライフスタイルが固定化されていたために選択肢も固定化されている。ライフスタイルも環境も、そして集団内の構成員もほぼ変わらない。
夏目漱石の個人主義のような概念などは特殊なエリート層だけの話であり、戦前までの日本人の90%はそもそも生きることで精一杯であった。
感染症や天災により簡単に人が死んでいた時代である。

現代社会は、法により雁字搦めにされたフィールドの中で無限にある選択肢を「自己責任」の名の下生かされている。親ガチャ等の運要素もあるが、基本的に自由かつ極めて同質性が高い。
身分制度も廃止され、そこにあるのは親族の経済力かその瞬間の社会適応能力だけである。
よって余りある選択肢、本能レベルに及ぶ法の浸食、無限自己責任ベースにより、逆説的に人間は同質化されていった。
現代社会=豊かさと自由のために、本来の人間性を矯正され、同じベクトル(資本主義・学歴社会等)に向かうよう矯正され、それでいて全ては自己責任なのである。
こうなると、自由にも関わらず、現代社会が求めている人間にならなければならない。
江戸時代の百姓だとわかりやすかった「答え」が、現代社会では極めて難度が高い割に正解が不明瞭である。時代の転換スパンが速すぎ、この50年で廃れた技術と必須な学力を見てみるとわかりやすい。たった50年で社会から要請される最低限のレベルが格段に上がっている。
メンヘラの誕生の原因は、この社会から要請される最低限のレベルの最低条件であるコミュニケーション能力が育成環境等により不全状態となってしまっているからである。

まとめてみよう。
現代社会とは、
・本来の人間の生活ではない異常な状態
・選択肢の多すぎる自由と自己責任ベースの二律背反
・社会に合わせるための最低レベルの難度の向上
コミュニケーション偏重社会についていけないメンタル=メンヘラ

なぜメンヘラはメンヘラになるのか?

現代社会はコミュニケーション偏重である。
・本来の人間の生活ではない異常な状態
見ず知らずの大集団の他人との生活、身分や階級のない社会、正解の見えない社会、複雑なルール、非人間的な環境。
・選択肢の多すぎる自由と自己責任ベースの二律背反
正解がわからない不安と自己責任ベース社会による強迫観念、正解を自分から求めていかざるを得ない状況
・社会に合わせるための最低レベルの難度の向上
学校では習わないレベルの矯正レベルの初歩的欠落とそれをフォローしてくれる機会の無さ、最低レベルの履修を終えていなくても生きてはいける豊かさ

上記の羅列はいずれまとめてみたいが、とりあえず。
例えば、「空気が読めない」ことは現代社会ではご法度である。もはや罪のレベルで集団から排除されてしまう。
発達障害と言われる人々は、暗黙の了解の理解が先天的に困難である。故に障害とされているが、こんなもの50年前では障害とされていなかった。
要するに病気が増えたのではなく、それを病気としなくては社会がやっていけないくらい複雑化しているのだ。

では、空気を読むためにはどうしたらよいのであろうか?
それは自己を一貫性のある自己として「確信」することである。
現代社会で一番重要な能力は、一貫性のある自己の演出だ。
自己責任ベース社会では、時間的にも物理的にも自己はずっと昔から未来まで同じ自己である。ちなみに以前から書いてきたが、こういった一貫性のある自己の演出などなかった社会は歴史上掃いて捨てるほどあった。
借りた金を返し、昨日しでかした失敗の責任を取る人間こそ現代人である。
ここに一貫性のある自己の演出=キャラクターも必要になった。
普段から真面目な人が急に下ネタでも話したらびっくりされるだろう。
現代では、一貫性のある自己の演出が巧妙な人ほど有能とされている。

しかし、この一貫性のある自己の演出というのは非常に難易度の高い非人間的能力である。
人類の歴史の99%の間、人間は自己のキャラクターなど意識すらしていない。ありのままに生き、所属する集団の掟に従い、常に怯えながら生きてきた。そもそも生きていることで精一杯であるし、逆にそれ以上のことを求めるような社会でもなかったのだ。
文明が発達しても、よほどの権力者以外は親と同じような生活を繰り返し、見慣れたムラ社会の構成員とだけコミュニケーションを図ればよかった。このとき初めて逸脱者は村八分されただろう。しかし、空気が読めないだけで現代のような排除を受けることはなかった。
あくまでも宗教や文化の掟を守っていればよかった。それは現代ほど複雑でもないし、そもそも人間は協力しないと生きていけなかった。
現代はそういった宗教や文化から切り離された一自己として登録され、無限の選択肢の社会に放おり出される。自己を規定してくれる歴史的要因は多様化の名の下、その拘束力を失っている。それが現代社会の言う自由であるが、そのために自己が何者なのかを規定するのは集団力学になってしまった。
クラスカーストのように、自己が集団毎に不明瞭な力関係で勝手に規定され、そこに求められているキャラクターを演じなければ「空気が読めない」のである。
以前であれば、ルックスが良いとか喧嘩が強い、勉強ができるというカテゴリーだけで良かったものが、今はコミュニケーション能力が求められるのも、自己を規定する諸処の権威の消滅による。
故に現代社会では、コミュニケーション能力が最重要なのだ。

メンヘラの要因はコミュニケーション不全

メンヘラのイメージは、昨今流行?の愛着障害や人格障害の症状とほぼ同じである。
それは障害とされているが、あくまでもコミュニケーション不全のグラデーションの何処かにいるのだ。
コミュニケーション不全の原因は先天的なもの=発達障害と、後天的なもの=愛着障害・人格障害・トラウマなどである。
発達障害は、自己と他者の間の境界の認識が「普通」ではないという生まれ持った脳の認知機能の特異性のためである。空気が読めない、距離が近い、自分の話ばかりする、過敏かつ反応が乏しい、時間や衛生面がルーズ・・・このすべてが発達障害者の自己という一貫性が「現代社会の求める一貫性」とズレているからなのだ。
愛着障害や人格障害は、生育環境における「矯正」不全が原因である。
それは親とのコミュニケーションだ。
なぜなら生まれて最初の社会との会合が「母親」である。
そして現代社会は、「親に愛されて生まれてきた子どもたち」前提ですべてが構成されている。子供が生まれて役所に行けばおめでとうございますと言われる。
この前提条件がそもそも経験できなかった子供は、メンヘラになりやすい。
それは矯正機関である学校は「コミュニケーション能力の前提条件を取得しているという前提」で運営されているからだ。
コミュニケーションの前提条件は、一貫性のある自己の確立である。
自己は世界で唯一無二の存在であるという存在自認である。自己承認などというレベルではなく、あくまでも自分は自分だし、昔も未来もずっと自分は自分という確信である。
育成環境が悪い(虐待、放任、毒親等)と、これが経験できず、中途半端もしくは認知の歪みの自己像のまま矯正機関である学校に行き、そこで排除もしくは間違った対処をしてしまうことで歪みが戻らなくなってしまうのだ。
フロイト心理学を荒くまとめて魔改造すると、自己の承認は以下のようになる。

1、生まれたばかりの赤ちゃんにとって他者とは母であり、ほしいときに授乳してくれる、おむつを変えてくれる、抱っこしてくれる絶対的対象。故に赤ちゃんは母は何でも自分の欲求を叶えてくれる神のような存在だと思う=愛される自分。
2、大きくなると母親が思い通りに動いてくれないことに気づく。母親の愛は絶対ではなく、母親も自分のような一人の人間なのだと気づく。そしてその母親には夫婦としての父親がおり、自分だけの母親を奪う存在である=他者の容認。
3、父親は母親の欲望を満たす・与えるものであり、奪われた母親を獲得するためにも父親のようになりたいと思う。ここでいう父親は権威=ルール=社会システム。

まず1、2で母親との関係を通して、自己を規定する。
ここで躓くと、自己が規定されないままの不安な状態で放置されてしまう。
アダルトチルドレンの説明で有名な例え話がある。母親は港のようなものである。子供は未知の海に向かってボートを漕ぎ出す、すると遠からず失敗したり驚いて怖くなって港に引き返す。港は暖かく迎えてくれる。子供は元気を取り戻しまた航海に挑戦する。
この港に相当する母親との関係が無い、もしくは虐待等で放任や恐怖に縛られると「港がないまま海洋に漂っている」という不安過ぎる状態のまま成長していくのである。
母親との愛着関係を通して世界を体感することで成長し、やがて母親に承認されている自己を自己と規定し、母港がある状態で不安なく他者とのコミュニケーションを経験していく。
これにより自己は一貫性のある存在であると矯正されるのだ。
この経験がないと、常に不安で自信がなく、また他者への距離感や信頼関係がわからず極端に依存したりすぐ裏切られたと思いヒステリーになるなど、「一貫性のない行動」の原因となってしまう。
どこかもわからない大洋を漂っている船というのが一番わかり易いイメージだろう。

3で社会のルール、暗黙の了解を学ぶ。
自己を規定し、家庭のルールや社会システムのルールを親とともに経験することで自然なコミュニケーションを学ぶのだ。
フロイトのいうエディプスコンプレックス=父親像というのは、現代ではあまり関係なくなってきたとは思う。父親はあくまでも社会システムの象徴である。家庭の父親の権威までもが社会に侵食されたとも言えるが。
ここでも虐待や放任、両親の離婚、毒親などにより、いわゆる「普通の家庭」でないとコミュニケーション能力の経験不足やズレが生じる。
ここまで見てわかるように、社会が要請する家族像=サザエさんやクレヨンしんちゃんのような前提は、「当然の前提条件」に組み込まれているのだ。
なぜなら、学校が同年齢の子どもたちを集団生活させながら矯正するからである。そこで問題があれば行政が介入することからもわかるように、所詮学校は篩(ふるい)でしかない。
学校などの矯正機関の使命は全体レベルの底上げと同質性の維持である。社会はその前提の元、駆動しているためだ。
だが、義務教育以前の矯正レベルは「当然の前提条件」とされているため、ある程度のラインを設けて学校教育は一斉スタートする。
そこで漏れてしまった個人は、そもそも最初からハンデを与えられているのだ。
小学校も高学年になれば、発達心理学的にコミュニケーション能力が飛躍し、このレベルで「空気が読めない」は罪として排除される。
メンヘラは被害者にも加害者にもなるだろう。不安が強いためいじめの対象になりやすいし、逆に子供の頃から大人の冷酷な倫理で生きてきたからそういった駆け引きだけが上手な場合もあるし、愛情不足により他者への嫉妬心が強く攻撃的になったりする。
このまま成長するにあたり、スタート時からの経験不足、自己承認不足、認知の歪みが満たされていないと、ますます高度化するコミュニケーションの世界で苦悩する。
喪失と不安が一生付きまとう。喪失感を埋めようと過剰に他者からの承認を求めたり、不安のために過剰に他者を試したり攻撃したり依存したりする。
メンヘラの主要因は、生来付き纏う喪失感と不安感であり、その原因は過剰に自己の一貫性を求める社会と、自己を規定できなかった個人へのフォローの少なさである。

まとめ

メンヘラとは何か?
複雑な要求をする社会の前提条件に不幸にも達し得なかったために、教育・労働というコミュニケーション偏重な条件下では過剰な不安に駆られ、その反作用として自罰的他罰的な行動や他者への過剰な依存や攻撃、そして自己嫌悪の負のスパイラルがトラウマとなって終わりなき地獄を生きている。
原因は愛情・経験不足から生じる自己の喪失感と、大洋に漂っているような不安、その対処としての行動により自己と他者を傷つけてしまう。
複雑すぎる社会を維持するために求められるある一定の経験と能力の最低条件が保護者からの愛情、それが獲得できなかったということはスタート地点からすでに無理ゲー状態なのだ。
故に、まずその状況を客観的に認知すること、そして自己の喪失感を認めること、これが解決の第一歩である。
そういったことについてはまた次回書いてみることにする。

参考文献


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