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人生「主人公感」が大事だが、それは本当にあなたの主人公感?

僕は現代人に最も必要な自己肯定感は、「主人公感」であると思う。
そもそも現代社会は自己肯定感を必要とさせる。
これは2つの理由がある。

1つ目は、現代社会では個性が埋没してしまうからだ。
社会システムが高度に発達した今、個人はシステムの中の歯車であり、全体性やグループとして処理されている。
よって「生きている実感」が生じにくい。
これがひどくなるとうつ病や精神病になってしまう。
これは豊かな現代社会の負の部分だ。

2つ目は、消費経済への誘導である。
個性を失った個人は、個性を求めるように駆り立てられる。
資本主義経済はマスメディア/広告を利用して、「生きている実感の無さ」を掻き立て、「本当の自分はどこに?」と問いかける。
恋愛ドラマや映画がこれほど多いのは、単に感情的な共感により視聴者を惹きつけるという面だけではなく、恋愛=主人公感が高くなるからだ。
よって恋愛を社会の価値基準に規定すると、身だしなみに気を使うようになり、流行が生まれ、社会のステータスなる階級が生まれる。これはすべて経済合理性に基つくものだ。
そして社会システムの運営もこれに規定されていたほうが数多の人間を御しやすい。
犯罪を侵さず、社会上昇機運を煽ることで黙って一つの方向へ収束させ、人間を選別し、消費者に零落させる。

この自己肯定感の存在理由は、現代社会の根本的な価値観の創造に与している。
ここで「主人公感」の重要性が増すのだ。
しかし、この主人公感はかなり曲解されている。
一般的な主人公感というのは、消費行動への誘導のための自己肯定感演出でしかない。
「自分が意識的に自分の人生を生きている」という演出により、選択を迫られ、自ずと我々は誘導されている。これに無批判でいることは、無意識の経済合理性への妥協的擦り寄りなのだ。

本来の主人公感とは、社会をメタ認知した上での自分の立ち位置の把握である。
Google Mapで現在の自分の位置を把握するように、社会という存在をメタ認知/一歩引いて俯瞰して眺めた上での自己認識である。
社会の中に囚われているという感覚を抱きつつ、その中で自分がどう立ち振る舞っているかを客観的に観察する余裕。
この余裕こそ、主人公感だ。
ふと立ち止まって客観的に観察することで、何かしらに流されている自分を見失うことはなくなる。
スマホゲームに熱中している自分を客観的に眺めて、それが流されているのか楽しんでいるのかを判断するだけでも全然違うのだ。
僕は自己本位的に楽しめていればそれがなんであっても良いと思う。
スマホゲームに課金しまくろうが、酒に溺れようが、見た目の演出に凝ろうが、それが自分発の選択であり行動だと認識できているのであれば良いと思う。
本当の意味での自分発という行動は存在しないが、不純物が少なければ少ないほど流されていないという判断材料になる。

その客観的観察は非常に辛くもある。
仕事や人間関係のストレスから酒を飲んでいるのか、ただ酒が好きだから飲んでいるのか。
前者であれば辞めたほうが良い。

しかし、この客観的自己評価を現代人は意識しなくなるよう洗脳されている。
学校教育では集団への帰属意識と勝手に決められた価値観の遵守を叩き込まれる。
社会はそれを土台にして成り立っている。
よって批判的に自己評価や環境評価をすることに慣れていない。
信号が赤であれば止まるというような当然のルールを何百万も叩き込まれた我々は、すでにそこにあるものに対して無批判でいることが当たり前になっているのだ。
だからこそ、AのためにBという行動をしている自分を客観視できない。
Bという行動が始まりだと思っている。
社会のメタ認知とは、このAのさらに前の0まで意識しようと試みることだ。
0はなにもないという意味ではない。

主人公感とはドラクエの主人公のような感覚があるだろう。
しかし、それはエニックスという会社が作った任天堂のファミコンのためのゲームソフトである。
映画マトリックスのようなメタ認知は、脳に過度な負担をかけ、決して心地よいものではない。
メタバースよろしく、無批判に生きることは楽だ。
だがそこには真の自己肯定感はない。
そして並の人間であれば、現代社会とは自己肯定感がなくても生きていける環境ではない。
悟りの境地とはこのさらに上の階層のメタ認知である。しかも上も下もないというメタのないメタ認知。
並の人間であるならば、ふと立ち止まって自分の立ち位置を把握してみよう。
気づいたときには、思っていたより遠い場所に流されているかも知れない。
「その場所が正しいのか」ではなく、自分の位置を自分が把握しているということが主人公感なのだ。
流されるな、足元を見よ、それでいて楽しめ

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