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12月7日「聖者たちの食卓」シンプルで静謐な場所・時間

 タイに行った時、寺院巡りが楽しかったことを思い出した。日本のお寺の穏やかな雰囲気、デンマークの教会の死と静かさの共存なんかも、好きだけれど、タイのお寺の「生きてる」感がめっちゃよかった。生活の中に宗教が根付いていること、自然に、タイの人々の真ん中にお寺があること。なんだか元気になれた。
 「聖者たちの食卓」はインドのシク教のお寺で供される、巡礼者のための食事がどのように準備されているかを収めたドキュメンタリー。「黄金寺院」と呼ばれるハリマンディル・サーヒブでは、毎日10万食が提供されているらしい。映像にはナレーションがないので、この情報は見た後で調べた。
 大量のニンニクの皮をむく人たち、皮をむいたにんにくを集める人たち、にんにくを刻む人たち、刻んだにんにくを集める人たち・・・・とにかく大勢の人が、分業制で準備をしている。みんなボランティアらしい。いったい何人いるんだろう。
 おそらく料理はお野菜のみで、ひたすらいろんな野菜を刻むシーンが続く。タマネギ担当は涙をぬぐいながら刻む。こういうのはどの国でも一緒なんだと思うとちょっとおもしろい。
 主食はチャパティ。これも、生地を小さく丸める人、それを麵棒で伸ばす人、焼く人、全部分けてる。薄いチャパティがおいしそう。
 だだっ広い食堂は水でモップ掛けされて清潔そう。そこに、座るための細いカーペットが敷かれる。
 寺院に入る人はみな、靴を預ける。男女で受付が違うみたい。番号札と交換なのかと思ってたけど、預けた後、靴はおじさんたちが七人くらい集まって磨いているみたい。果たして自分の靴は戻ってくるのか?
 靴を預けた後は、小さな水路を通って足を洗う。水道で手を洗う。磨かれたタイルの廊下を進んでいく。お日様に照らされたタイルは熱そうに見えるけど、みんな平気な様子。
 その後、アルミ?製のお皿を受け取り、小さなお椀を受け取り、カトラリーを受け取り、いよいよ食堂へ。お皿は1:3に区切られている。
 食堂ではみんな自分の前にお皿とお椀を置いて座る。テーブルはなし。そのお皿やお椀めがけて、配膳係がお水やカレーを入れていく。お水はダバダバこぼれている。主食はチャパティ。
 みんな同じ量を入れられているようなので、男の人なんかは足りるのか心配になったが、配膳係は何度も来てくれるようだ。そのたびに、おかわりできる。もういらない場合は手で示す。チャパティのおかわりは両手で頂く。
 床に置いたお皿のカレーをチャパティにつけて食べる。こぼしそうだと思っていると、ちぎった小さなチャパティを、大きなチャパティで受けてから口に運んでいるところがうつった。なるほど、これならボタボタこぼさずにすむ。
 寺院の食事というと、日本だとたくあんを嚙む音も許されない厳しいイメージだけど、ここでは皆リラックスして食べている。大騒ぎするような人はもちろんいないけど、みんなで家族の食卓を囲んでいるイメージ。
 食後も圧巻だった。食器を受け取る人が、籠にどんどん投げていく。籠の食器をうまくまとめて運ぶ人が別にいる。お皿が飛んでくるので、お皿を一枚盾のようにしてうまく入れていく。洗い場にはすでに多くの人がスタンバイ。食器を洗剤で洗っていく。洗った後の泡は流していないみたい。係りが洗いあがりをチェックしてまとめて持っていく。
 調理した大鍋の中に入って、磨く人がいる。全身をつかって磨く。これはきつそう。その奥の鍋ではカレーが煮えている。大鍋はすり鉢状に見えたので、磨きながらバランスを崩すんじゃないかとちょっとハラハラした。洗い終わると豪快にホースで流す。流したしぶきが奥の鍋のカレーに入りそう。
 係の仕事を終えた男性たちは、寺院の横のプール?川?に入る。この水は、手足のお清めにも使うし、汲んで床の清掃にも使うし、この寺院の水源なんだろう。頭にターバンをまいた男性が沐浴している場面も映っていた。食事も、その一連のアレコレも、神聖なものとして扱われているんだと思った。
 全体を通してナレーションがなく、作業音と雑踏の音とたまにパーカッションの曲が入る。それが心地よくて、何度か寝てしまった。
 
 宗教と生活が一体になっている様子が自然で、リラックスできた。だだっ広い空間も、そこに集まった人も、「食事」して「祈る」ためだけに集まっている。この規模で!とてもシンプルで、そのシンプルさがうらやましかった。
 そういうシンプルで静謐な場所や時間が、私も欲しいと思った。私のまわりだと、それは何になるんだろう。
 
 シンプルで大きな流れに触れて、面白かった。インドに行ってみたいな。

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