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「untitled」 に寄せて

つまるところ、両親はわたしをつくったが、決して神様たちではないのである。わたしがウミガメとかでなくヒトの子である以上、一度はそれがすべてだった世界を経て生きてきたせいか、こんな当たり前のことを何故だかふと忘れてしまうときがある。

ついつらくなると、子知らずでわたしを一体どうしてくれるんだと言いたくなるようなどうしようもない子であるが、親もまた同じく子であって、きっとわたしが知らずにすむようにしてくれた環境の中で、ひとり傷ついたり生き延びたりして来たのであった。

わたしは両親の愛を知っている。大人になってからうちにやってきた猫が、こんなどうしようもないわたしにもわかるように、親切に見せ示してくれた。それとわたしは自分のこの少し不便な感覚が、どういう環境や影響で磨かれることになったのかも知っている。だからこそ子の権利を振りかざして、大事に思っているはずの人を不意に傷つけてしまったりするのが、子としてとても情けなく思う。

この文を寄せる「untitled」は友人の結婚式に向けて筆を執った作品である。
結婚式にふさわしい曲というと、ふたり愛を誓って一生一緒にいよう!だとか、友よ誰よりも幸せになってくれ!とか、お嫁に行きます今までありがとう!とかその逆も然りで、他にもまあ色々とあるのだろうけれど、自分にとっては結婚というものがそもそも遠く遠くの空にふわふわと浮かんだ島のようなぼんやりとした存在で、自分の人生を誰かと分け合いながら生きていくこととか、他人の人生の責任を負っていのちごと共有していくこととか、うまく想像できないという意味での本当に意味がわからないすごい現象だったので(これを既婚者たちに言うと挙って考えすぎと言われるが)、だからこそ両親やその友人を含め結婚を選んだ世の人々をわたしはかなり尊敬していているし、兎にも角にもわたしがそんなような感じの人間なので、端からこんな自分の感性で所謂“そういったもの”が書けるとは全く思っていなかったからこそ、じゃあわたしにはなにが書けるだろうかとずっと考えていた。

結婚というものは、誰かにとってはひとつのゴールであるが、わたしにとっては通りかかったら選ぶかもしれないくらいの選択肢のひとつで、わたしの友人の中には結婚という選択肢を選ばないと決めたものもいれば選べないものもいる。これは単にまだ若いから、相手がいないから、という理由ではなくである。この曲をお披露目することになるのは結婚式であろうと、わたしはそういった人々を見捨てない曲が書きたかった。

ちょうどこの曲を書き始めた頃、おばあちゃんが手術をすることになった。おばあちゃんはわたしのことをかなり可愛がってくれていて、わたしもおばあちゃんが大好きだったから、もしも、もしもおばあちゃんがいなくなっちゃったらどうしようと不安で仕方なくて、かなしくてかなしくて眠れない日々が続いた。結果的には本人よりもわたしのほうが不安がっていたくらいで、無事におばあちゃんは元気になったけれど、あの冒頭部分はそんな切なる不安がわたしの筆を動かしていったように思う。

“やさしさ”は、やさしい人がただひとりいるだけでは生まれない。そこに“やさしさ”があると気づくひとがいないことには成り立たないのである。“やさしさ”を、受け取り手の受け取りやすい形で差し出すことはもちろん大変素晴らしい能力であるが、“やさしさ”に気づけることは、つまりはそれをよく知っていることでもあり、それを十分に受け取れる状態であるということも併せて必要で、これまたかなりの能力を要することであると思う。人々のいう“やさしさ”のためにはこのふたつの能力が必要であるのに、前者の力が優れたものばかりが持て囃され、後者の能力の必要性などには殆どの人が目もくれないでいる。

愛情についても同じであると思う。やさしさと愛情に色があったならば、多分ふたつは限りなく同じ色をしている。わたしたちはどうしてもわかりやすくて大きな愛をついつい欲しがったりするが、そんなときに差し出されていたささやかな愛を蔑ろにしてはいなかっただろうか?ある春に、空いっぱいに咲き誇る桜の花弁を掴むのに夢中になって、足元でこっそりとわらう一輪のタンポポを踏み潰しやしなかったか?

そもそもわたしたちは目に見えない愛情ややさしさなんて抽象的なものを、どうしてそれが愛情だのやさしさだのとわかるようになったのだろうか。どこかの星に住むキツネは、かんじんなことは目に見えないと言った。だけど、いつからかわたしたちは愛情の化身みたいなものを見たり触ったり嗅いだり聴いたり味わったり、ときには両手いっぱいに抱きしめたり、自らの手で何かに宿したりだってできるようになっていたはずだ。わたしたちはちゃんと、見えないはずのものを望遠鏡がなくたってこの目で確かに見てきたはずなのである。
きっとこれは、いつかの誰かが知らぬ花の名前を教えてくれたのと同じようにして、この温度がこの香りが愛情なのだと教えてくれていた人が、わたしたちのそばにいた証なのだろうと思う。多分、どんな人でもどんな関係でも、わたしたちは色々な愛の形をこれまで関わってきた誰かから、或いは出来事から教わってきた。

皮肉なことに、わたしたちの愛はかなしみや憎しみからも構成されていったりする。例えば、自分にはそんなあたたかい記憶がない、愛など知らず孤独のかなしみしか知らない、という人がいたとしたらば、それはかなしいことを知っている分だけ、他の誰かがかなしむことをしないであげようという一種の愛を生むことができるのだと伝えたい。恐ろしい感情たちから誰かを守ることや、恐ろしい感情たちを前にせーので手を繋いで一緒に中を覗き込んでくれることは、その恐ろしさに立ち向かったことがある人にしか持てない愛なのである。かなしいことをたくさん知っている人は、たくさんたくさん、やさしくなれる人だとわたしは思う。わたしはそう思っていたい。

今までわたしにやさしくしてくれた人、わたしを守っていてくれた人、わたしじゃなくても誰かを守り、どこかに潜むやさしさを見つけ続けていた人たち、わたしの知らない間にわたしや誰かが知らなくて良くなったかなしみを背負っていてくれてありがとう。できるだけ、できるだけ、わたしはあなたたちのことを大切にしていたいです。
おとなになってから気づいた愛だってたくさんあるのだから、まだまだこれから生き続けることで知っていく愛だって、この世界にはたくさん転がっているのだと思う。そんな世界では、あのときのあなたの愛にちゃんと気づいたよと伝えることもまたひとつの愛であると思うので、わたしはこうしてちゃんと伝えていこうと思います。

相変わらずああだこうだと考えるものだから、長い長い文章になってしまったけれど、こんなふうに愛についてのわたしなりの哲学を深く深く考え筆を執る機会をくれた友人たち、本当にどうもありがとう。この曲の名前は結局、まだタイトルもついていないような新しい曲なんです〜とか言いながら歌ったあの日と同じまんまですが、何度考えても下手に愛のナンタラとかなんちゃらラブとか名付けて格好つけるより、これがいちばん、抽象的で自由な愛を歌うためにはぴったりで、すごくすごくしっくり来ているのです。

今までわたしに愛を教えてくれていた人々へ、こんな歌を書き上げ精一杯うたうという形でわたしの愛が伝わりますように。

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