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泳ぎ方を思い出した。

 パソコンを買った。

 今まで持っていた派手なピンク色のパソコンは、もう長いこと机の上に置かれたことがなかった。大学入学と同時に親が買ってくれたそのパソコンは、大学でのレポート執筆やちょっとした資料の作成に間に合えば十分、と主張した私にちょうどいい、実にシンプルで最低限の性能を備えたものだった。当然、値段はかなり安いほうだった。

 実際、大学生活の間でパソコンと長時間向き合っていたのは、レポートの締め切りに追われている期間くらいだった。私は混声合唱のサークルに所属していて、日々忙しくしていた。とはいえ合唱においてとくべつ能力が抜きんで出ていたわけでもなく、「大好き」といえるほどの熱量を持っていたわけでもなかった。サークルとアルバイト、そして優先順位を大きく下げられた、本来学生の本分である学業の3つに日々追われ、ランニングマシンで無心に走り続けるような日々を送っていた。大学を卒業するころにはパソコンのバッテリーがほとんどダメになっていたが、もう家でレポートを書くこともなかろう、とそのままにしていたのだった。

 
 話が変わるが、昔の私はそうとうな本好きだった。小学生の頃は休み時間になれば本を広げ、一人机に座ったまま読書に耽ることも多々あった。中学生になると、学校の図書室がお気に入りの場所で、放課後はよくそこで文庫本をパラパラめくってその日借りる本を吟味し、帰りのスクールバスと電車の中でずっと読んでいた。

 今でも、穏やかな幸福に包まれた放課後のひとときを思い出す。西日が差し込む図書室には自分のほかにも生徒たちが―きっと同じように本が好きな人たちが―数人いて、椅子に座って本を読んだり、本棚の前でじっと何か考えていたりする。みんな、ほとんど口をきかない。時々野球部の掛け声なんかがグラウンドの方から聞こえてくる。私は文庫本のコーナーで色々な本を手に取ったり適当なページを読んでみたりする。今日はどんな本を迎えようかとワクワクしながら。そのうち、これだ!という本を見つける。早く腰を据えて読みたくて、足早にカウンターに向かう。図書室を出る間際に振り返ると、各々の世界に没頭する生徒たちの姿が変わらずそこにあるのだった。

 けれど、そんな贅沢な時間を過ごせたのはほんのわずかな間に過ぎなかった。朝の通学のお供は、そのうちふつうの文庫本よりも分厚い英単語帳に取って代わられた。高校からは合唱部に入り、もはや放課後にゆったり本を吟味する時間もなくなった。気が付くと、一人だけで行動することはほとんどなく、休み時間も学校帰りも誰かと一緒だった。もともと内向的だった私は、少しずつ友達付き合いというものを覚えていき、外に向かって自分を開いていくことを学んだ。大学生になると先に書いたように余裕のない毎日で、混みあった電車の中でイヤホンを通して聴く音楽が、ほんの一時人付き合いの疲れや日々のあれこれを忘れさせてくれた。幼いころは深いところからどっしり私を支えてくれる存在であった本は、いつの間にか時折開いて少し読んでみるだけの、趣味とも呼べないようなものになっていた。


 そんな私が、最近になってまた本に夢中になりだした。きっかけは何だったか。たぶん、「他人を心の拠り所にすることをやめた」「自分だけの、夢中になれる世界をきちんと持ちたいと思った」というのが大きいだろう。そこらへんの話はいずれまたどこかの機会に書くこととして、とにかく私は今、本に夢中なのだ。
 
 久々に感じる、心からの充足感だった。頭の中に、いや、目の前に広がるもう一つの"現実"が、私をどこまでも深遠で刺激的な世界に連れ出してくれる。どうしてこの感覚を、本の偉大さをこんなにも長い間忘れていたのかと呆れたほどだ。今、私には本がある。たとえ仕事でしんどい思いをしても、人間関係に疲れても、本に飛び込めば私は自由に泳げるのだ。

 買い替えなければと言いながらずっと放置していたパソコンをようやく新しく買ったのは、たんなる気まぐれかもしれない。はっきりとは分からない。けれど私は、何かを大声で叫びたいような気持ちになったのだ。本が好きだった。物語を創作したり、文章を書くことが好きだった。自分の中に湧き上がる思いを、私はどうにかして形にしてみたかった。そうだ、思い出した。

 きっと私よりも多彩な表現ができる人はたくさんいるし、私が今までに読んできた本の数だってたかが知れたものだろう。それでもいい。立派な小説も、ためになる指南書も、笑えるエッセイも書けないかもしれないが、私はことばを綴ろう。自分だけの世界で自由に泳ぎながら、思いのままに形にしてみよう。


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