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走る子ども、見送る大人ー『天気の子』

遅ればせながら、『天気の子』を観てきたので感想を書きました。
ネタバレありです。

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主人公は離島に育った家出少年・帆高。大した金も持たず、つても働き口のあてもない、無鉄砲そのものの16歳。
憧れの東京にやってきたはいいものの、あっという間に手詰まりになった帆高は、宿なし金なしの空腹の身を新宿のマクドナルドでやり過ごす。そんな彼を見かねてこっそりとハンバーガーを差し入れてくれたのが、そこでバイトしていた少女・陽菜だった。

その後、運よくオカルト系記事の小さな編集プロダクションに拾われた帆高は、こきつかわれながらも東京での新生活を満喫する。
そんな時、「100%の晴れ女」という噂のネタを調べていた帆高は、偶然陽菜に再会する。ずっと雨続きの東京の真ん中で陽菜が祈ってみせると、彼らの上に嘘のようにぽっかりと晴れ間が差しこんだ。
陽菜こそが、「晴れ女」だったのだ。

母が亡くなり、小学生の弟と生活を一人で支える陽菜に、帆高は「晴れ女」のバイトを提案。
局地的ながら確実に晴れを呼ぶ陽菜の存在はたちまち有名になり依頼が殺到。雨の東京を縦横無尽に駆け巡る二人の日々は順風満帆に思われたが……。

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帆高の行動は、はっきり言って全部裏目だ。
子ども一人、東京で生きるための算段が甘すぎるし、そもそも家を飛び出した理由も「息苦しいから」なんてあいまいで夢見がちだ。「大丈夫です」「一人でやっていく」なんて繰り返し言うくせに、結局周りの大人たちに助けられるばかり。
あてもないのに陽菜と弟の凪を連れ出して、警官に補導されそうになったらタックルかまして、それも結局陽菜にフォローされる始末。
ようやく転がり込んだラブホテルでは、大した金も持ってないのにインスタント食品で豪遊しながら「僕たちは大丈夫だ。だからこのままにしてくれ」と願う。どっからどう見たって何一つ大丈夫なんかじゃないのに。

帆高はあまりにも馬鹿だ。浅はかで、見通しが甘くて、だからこそ、あまりにも16歳だった。

私たち大人は色んなことを知っている。それなりの年数生きてきて、失敗して成功してあれこれ経験した結果、こうしたらこうなるだろうとか、これはやらないほうがいいだろうとか、そういうことが見えている。お金のこととか仕事のこととか、具体的な数字もわかってしまう。
大人は明日の、来週の、来年のことを考える。いつかくるその日に不利になる可能性は選ばないで、踏みとどまる。

帆高は、16歳の、子どもだ。
将来への不安があるのは同じでも、「こうしたらこうなる」という経験則さえ持っていない。先の道筋をうっすらとでも想像できる大人と違って、未来はまったくの暗闇だし、未知だ。目の前にある選択肢がどれほど大きな意味を持つかさえ知らない。だからこそ、時に驚くほど簡単にすべてを投げ捨てる。
子ども三人で立てこもったラブホテルで、明日は明後日はどうするんだよとやきもきする大人を差し置いて、「大丈夫だ」なんて言う。
得体のしれない未来なんて、世界なんて、どうだっていいから、好きな女の子が今、ここにいてほしくて走り出す。

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「晴れ女」陽菜を人柱として晴れを得た世界を否定し、帆高は陽菜を取り戻すために何もかもを捨てて走り出す。陽菜が帰ってくれば天候が再び狂うかもしれない、そんな可能性はまる無視で。
そこにはもう、善も悪も正も誤もない。責任を取れるとか取れないとか、そんな「後のこと」は関係ない。
それはもはや、陽菜本人のためですらないのだろう。
「愛にできることはまだあるかい」なんて歌は繰り返すけれど、たとえ帆高を突き動かすものの正体が愛だったとしても、ここまで純化された愛はもうエゴと見分けがつかない。
どれだけ間違っていても、どれだけ犠牲を払っても、どれだけ取り返しがつかなくても。
『自分が選んだ』。
最後に残るのはそれだけだし、それさえ離さなければ「大丈夫」だ。たとえ狂った世界でだって。
帆高は浅はかなガキだけど、そのことだけは知っていた。

*

ああ、馬鹿だなあ、帆高。
君は本当、考えなしの浅はかなガキだよ。
陽菜が年齢を偽っていたことがわかって、「俺が一番年上じゃん」なんて言ってみたって、実際の年齢なんて関係なくて、君より年下の陽菜のほうがよっぽど大人だったよ。
全部が悪手で、全部が間違いで、他人どころか世界まで巻き込んで、取り返しのつかないことをしてさ。

本当、馬鹿だなあ、帆高。
いつか君が大人になったら、もうそんなふうには走れなくなるぜ。
だからまあ、いいよ。
今は馬鹿なガキのまま、がむしゃらに走れよ。

#天気の子 #映画 #レビュー #コラム #コンテンツ会議


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