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ずるいよ、ほむらさん。――穂村弘『現実入門』

まったくの私事であるが、スマホをシムフリー契約に替えようと決意した。
友達や父親、情報や損得に敏感な人たちはもうかなり前に契約を切り替えていて、彼らの話を聞くにつけ、自分がいかに無駄金を払わされているかということを思い知らされては怒りで眠れぬ夜を過ごしてきた。
しかし、そんな日々ももう終焉だ。忌まわしき二年契約の切れる、更新月がやってきたのだ。
これを機に格安シムに乗り換え、キャリアになど後ろ足で砂をかけて、悠々と快適格安スマホライフを送っている人たちの仲間入りしよう!

などと夢想しながら、2017年の7月を待ちわびていた私だったが、更新月を迎え、いざ契約を切り替えようしたとき、いきなり「どこと契約するか」という壁にぶち当たった。格安スマホを売り出している会社はすでに無数にあり、情報を集め、比較し、自分がどのようにスマホを使っているかと照らし合わせてベストな会社を見つけなければならない。はっきりいって、一番苦手な作業だ。
しかも、格安なだけあって各種手続きを自分でやらなければならなかったり、円滑にデータを移行するための細かい手順を正確に進める必要があることがわかってくる。例えば……。

シムフリー対応の端末が事前にご確認ください。MNPの予約番号を取得して下さい。端末を変更する場合はバックアップを取っておいて下さい。初期設定もすませておいて下さい。データも移行しておいて下さい。ご自身で、ご自宅でお願いします。不明な点がありましたらお電話でお問い合わせ下さい。

…………。
私は面倒な書類を見つけるのが嫌で、郵便ポストをあまり開けないようにしている。ポイントカードも嫌いだ。絶対どっかにやってしまって、ポイント還元の恩恵なんて永遠に受けられないのに、来店するたびに「新しいカードをおつくりしますよ」をお断りできない。配信停止手続きが面倒くさくて無駄に受信しているメルマガも無数にある。
例を挙げればきりがないが、大小問わず、この世の手続きという手続きを恐れている。極力手続きと名の付くものには関わりたくない。金で解決するならどこかに委託したい。
しかし現実問題、生きていく上では手続きというものは無限に立ちはだかってくるし、そのすべてをどこかに丸投げできるような財力もない。回避しきれない契約ごとにぶつかるたびに膝を折られる。

現実、めんどくさい。めんどくさすぎるぞ。
こんなめんどくさいことをしないと、携帯の契約ひとつ自由に変えられないのか。みんな涼しい顔をしながら、こんな煩雑な手続きをつつがなく済ませているというのか。市役所の住所変更とかも放置せずにやっているのか。発狂もせず、結婚の手続きをこなしているのか。
ほんとに?

『ほんとにみんなこんなことを?』

……というのは、穂村弘の『現実入門』というエッセイのサブコピーだ。

内容は、世間知らずで決断力がなく、煩雑な現実を恐れる「ほむらさん」が、美人編集者のサクマさんとともに、様々な「初体験」に挑戦するというものだ。
それまでの人生の中で「選択」や「挑戦」を回避してきたほむらさんは、初めての献血や競馬や合コン、知り合いのお子さんと戯れての「擬似父親体験」などをおどおどとこなしながら、現実というものの手触りに驚く。

『現実だな。現実って感じ。』

どの回を読んでも、ほむらさんはなんとなく自信がなく、はっきりせず、当事者を回避するように空想に逃げがちだ。けれど、そのふわふわとした夢見がちな感じと、それでいて(逃避しているがゆえの)第三者視点的なクールさが、絶妙なユーモアを醸し出している。
まったく、ほむらさんってばしょうがないなあ。ふふ。
みたいな、近所の男の子を見守るお姉さんみたいな気分に、気づくとなっている。
それと同時に、ほむらさんの格好悪いところを自分と照らし合わせて、ちょっとほっとしたりもする。
個人的に面白かったのは、「夢のマス席」という回で、大相撲をマス席で見る、という体験をしたときの話だ。同行したサクマさんの上司から、マス席の案内役に渡すお金「心づけ」を託され、誰が案内役なんだ、いつ渡せばいいのだ、とほむらさんはそわそわしっぱなしになってしまう。

『うまく渡すことができるだろうか。不安だ。』
『いつ、どこで、どうやって、幾ら(これは今回の場合考えなくてもいいが)渡すのが正しいのか。定まった答えのないところが怖ろしい。』

まったくわかる。と大きく頷いてしまう。
私もこの、自分でタイミングをはかって、みたいなことがとてつもなく苦手だ。「誕生日のサプライズだからいいところでプレゼント渡して」とか言われても困るのだ。小学生のころ、友達のピアノの発表会の時、演奏後の拍手の間に花を渡すというミッションを与えられ、発表を聞くどころではなかったことを思い出す。
そうそう、現実ってこういう細かいところで細かい決断を要求してくるんだよな。うんうん。

そんなふうに、読み進めながらほむらさんの近所のお姉さんになってみたり、ほむらさんに感情移入したりしているうちに、どんどんほっこりさせられていることに気づく。不器用さや優柔不断さを存分にアピールしながら、いつのまにかほむらさんは懐の中に入り込んでいる。
考えてみれば、こんなどうってことのないエピソードが、ほむらさんフィルターを通すことによってこうしてネタになり、本になり、重版がかかり、って、完全に穂村弘の掌の上じゃないか。

ずるい。ずるいぞ、ほむらさん。
こんな文章、面白いに決まってる。

読んでみればきっと、なんだかよくわからない悔しさと、最終的には「でもほむらさんっていいよね」という結論で、この本を閉じることになるだろう。

まったくの余談だが、格安スマホ移行計画は、友達と同じ携帯会社にすることで選択の手間を回避、各種手続きは電機屋とスマホショップと電話問い合わせ窓口にしつこく連絡して、なんとか達成することができた。
面倒くさいけど、やればできるものだ。
きっとみんなそうやって、現実をなんとかしているのだ。

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ハッピーになります。