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食パンと通った道

食パンほど汎用性の高いパンはない。食パンは何にだって変身する。トーストひとつとっても、バターやジャムと合わせるだけでなく、ハムやチーズ、目玉焼きをのせたり、クレープのようにシナモンシュガーを振りかけて焼いたり、チョコレートやバナナ、生クリームをのせたり、しらすや納豆をのせたりすることもある。ソーセージに食パンを巻いて焼けば簡単なホットドッグになるし、食パンにチーズや加工肉をのせれば5分でピザトーストが楽しめる。王道のサンドイッチにいたっては、可能性は無限大だ。

幼いころ、隣に住む祖父母の家に泊まると、朝食には必ず、ハムとチーズと玉ねぎのスライスがのったトーストが出てきた。祖母はいつも豪勢に具を盛る。トースターから出てきたパンの上には、厚く切ったプロセスチーズがとろっと溶け出していて、それを祖母がフォークで全体に広げる。夏になると玉ねぎがトマトになる。そんな朝食は、日々バターとイチゴジャムのパンを牛乳で流し込んでいる少女にとって、まるでパリのカフェでとる朝食のように輝いて魅力にあふれていた。祖父母の家にはいつもおいしいものがあり、祖母は料理だけではなく、食のプレゼンテーションにも長けていた。
 
その当時、近所に「マロ」という喫茶店があった。店の庇のテントは濃い紫色で、箪笥の一番下の段にある風呂敷と同じ色だと思っていた。経営するのは麿(まろ)さんという男性で、大家が店子のところで金を落とすのは当然であるかのように、祖母はマロさんの店によく顔を出していた。タイミングが合うと、「マロさんのところへ一緒に行くかい」と連れて行ってもらえる。いつものミルクセーキを注文すると、マロさんが材料をミキサーに入れて攪拌する。四角く固い氷の入ったミルクセーキは、卵感が強めの濃厚なもので、まるで飲むカスタードクリームのようだった。祖母がマロさんと世間話をする間、ストローで遊びながら、ちびちびとミルクセーキを楽しむ。最後に、氷に空いている丸い穴に入り込んだミルクセーキをストローで吸い出す。最高に幸せな時間をすごす。 

マロさんの住居兼店舗の裏庭にはぶどう棚があり、それも子どもの想像力をかきたてる。一般的な住宅の庭にぶどうの木はない。少なくとも、うちにも、幼なじみのひろみちゃんのうちにもなかった。それなら、あの夢のようなミルクセーキを作るマロさんの庭は特別で、ぶどうの木の近くに異世界への入り口があるのではないか、などと空想していた
 
そのマロさんの喫茶店は、あるときからパン屋になった。実家の周囲には食品を買える場所がほとんどなかったため、母が喜んでいたのを覚えている。朝、母に頼まれ、食パンを買いに行くことがよくあった。「6枚切りください」と言うと、マロさんは切っていない四角い食パンを取り出す。ぐいーんという低音とともにスライサーの電源が入り、さっさっさっと瞬時にパンが同じ厚さに切られていく。マロさんが「そこのを取って」と袋詰めされたパンを指さすときは、切ってあるものを買うようにということだ。麦の穂のパッケージが赤いものが6枚切り、青が8枚切りで、赤がなければ青い袋を手に取る。青い袋を持ち帰るときは必ず、母に「6枚切りはないとマロさんが言ってた」と伝える。
 
あるとき、朝の早い時間に、店のシャッターの前にパンの入った番重が積み重なっていることを発見する。それ以降、その番重を見るためだけに、朝なんとなくそこを通ってみたりする。中身を想像し、ワクワクしながら店の前を通り過ぎる。番重の中をのぞきたいけれど、菓子パンがズラリと並んだ様子を想像して、ぐっと我慢する。
 
当時園児だった私にとって、6枚切りの食パンは食べきるのにそれなりの頑張りが必要だった。家の朝食は目玉焼きと食パンと牛乳を基本とし、ヨーグルトや果物が出てくることもあった。パンにはバターとイチゴジャムが定番で、マーマレードのときもある。イチゴジャムだけをぬって食べたかったのだが、そんなときは必ず母に「バターをぬりなさい」と言われるので、そのようにしていた。しょっぱいバターと甘いジャムの組み合わせにどうしても納得いかない。バターかジャムか、どちらか片方がいい。母には、目玉焼きはいらないと伝えることもできないでいた。 

パンが8枚切りのとき、母は「これは薄いから」と言って、2枚出してくることもあったが、さすがに食べるのに苦労した。だが、朝の大人のひりつくようなあわただしい空気は感じることができたし、「いらない」「食べられない」と言って、自らを窮地に追い込むほど知恵がなかったわけでもない。心を無にして食べてその場を乗り切った。もしかすると、時間が足りなくて、乗り切れなかったことの方が多かったかもしれない。
 
自分で食パンを作るようになるはそれから何十年も後のことだが、今作る食パンは主に2種類で、イーストで作る角食パンとサワードウで作る山食パンだ。どちらも3割ほど全粒粉を混ぜる。

角食

イーストで作るパンは、生イーストの賞味期限が迫っているときや、サワードウで作る時間がないとき、四角いサンドイッチを作るとき、フレンチトーストを作るときなどに作る。フレンチトーストをサワードウの食パンで作ると全体が重くなるので、そんなときは生イーストを使った白いパンにする。角食パンは角を立てるように少し高温で焼く。自分で作る食パンの耳は、カリカリでどうしてこんなにおいしいのだろう。店では取ってあることの多い左右の端の部分は、バターをぬっただけでもチーズをたっぷりのせても何をしても、トースターで焼くとクリスピーで最高においしい。 

サワードウ食パン

サワードウ食パンはレシピを構築するのも工程に慣れるのも苦労した。スタートから焼き上がりまでおおよそ丸2日かかる。気温の高い夏は、早朝に仕込んで夜焼きあがることもあるが、だいたい2日を目安にしている。焼きあがったパンには、ほんのりとした酸味があるので、万人受けはしないかもしれない。慣れてしまうと、この酸味がないと物足りなく感じる。祖母を思い出して、パンに玉ねぎとハムとプロセスチーズをのせて焼いてみる。閉ざされていた記憶の引き出しが開き、何十年も思い出すことのなかった祖母との会話や食事の風景が脳裏によみがえる。祖父母の家にあった家具や家の中の様子、祖母の割烹着姿や祖父の着物の柄などを思い出す。
 
世間では、様々な食パンが流行ったりすたれたりしているが、結局は、食べなれたシンプルな味に戻るものなのではないかと思っている。

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