見出し画像

人類に忘れられた海

※いきなり不思議なことを書きます。スピとかが大丈夫な人だけ読んでください。




私の自意識が芽生える瞬間は、3歳の春だった。はじめて幼稚園に行く前日。この瞬間、この世はワンネスだとすぐに理解した。

両親は、東京郊外に新築を建てた。まだ荷物が部屋に配置される前だった。春のやわらかな木漏れ日が入ってくる2階の空の部屋で、私は1人あぐらをかいて座っていたら・・・

下半身が浅い海に浸かっているように見えた。

おもしろくって、手をプカプカと浮かせてみたりして、しばらく観察した。海に見えるけど、浮力はない。そうやって遊んでたら、後ろから父の怒鳴り声が聴こえた。

「お前なにやってんだ」

あわてて、母のところへダッシュで逃亡。怒鳴る父の足元も海に浸かってたし、布団を畳んでいた母も海に浸かってた。どこまでも続いている海。

みんな同じ海に浸かってる。

それは、人と人のつながりが視覚化されたものであり、同じエネルギー体だという証拠だったのかも。

幼稚園初日。私は新しい仲間との出会いにワクワクしていた。幼稚園の下駄箱で、2人組の女の子が楽しそうに話している。私も仲良くなりたい。

「おはよう」とあいさつをしたら、衝撃的な現実を突きつけられた。

「あんた誰?」

1人の女の子から吐き捨てるように言われ、まるで私の存在はなかったかのように、教室へ行ってしまった。

ここで私は気づく。

私は同じ海でつながってるように見えたけど、そうじゃない子もいるんだ、と。


また別の日。母は、私をはじめてミュージカル観劇につれて行ってくれた。

そこで見たものは、「やっぱりみんな同じ海だ」と確信させる。

舞台にいる演者さん、客席から拍手を贈る私たちは、同じ海に浸かっていた。(そのときは雲海みたいに見えたかな。)

この空気は好きだなぁ、って。

(※ちなみに、みんなもよく舞台やライブなどの会場を「一体感」と表現するから、ワンネスは私だけじゃなく誰でも感じとれるものだと思ってる。)



はじめてミュージカルを観劇したあと、私も舞台に立つようになったり、“同じ海“を感じられる場所を求めて生きてきた。

でも学校に行けば、いじめられた。「同じ海なんてバカなんじゃないの」って否定されてる気分。(海の話はしたことなかったけど)

学校のなかでも、私と同じように夢を持ってる子・芸術に関心がある子とは波長が合って、私を攻撃しない。

安全な場所へ、安全な場所へ。海をかきわけるように、大人になっていった。



私が「同じ海」というキーワードをすっかり忘れてしまったのは、携帯電話を持ちはじめた頃だと思う。

SNSが流行って「個の時代」が来た。

「私とあなたはちがう人」

個人個人を切り離すことを促進させるSNS。やれフォロワー数やらイイネ数、とか言いはじめると、ますます人を孤独にする。

SNS漬けの生活は、人と比べたり、周りからどう見られてるとか、「私個人」を気にする。どんどんワンネスと遠ざかる。



数年前、都会から田舎移住して、自然に囲まれた暮らしにシフトした。お金と時間に余裕ができて、ヒマな主婦をやらせてもらってる。

ひたすら畑を見ながらボーーーっとしたり、毎日たぶん1時間以上は瞑想してたり。夫と愛犬とずっと一緒に過ごして、常に「愛がここにある」と感じるようになった。

その過程で思い出した。

そういえば海があったね、みんな浸かってたよね、って。

「私が帰ってきた」という感覚がしてる。

ただいま。おかえり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?