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"しにたみ"への対処法

"しにたみ"という言葉が使われるようになって久しい。かつてはわたしもそのような人間ではなかった。むしろ、しぬ、という言葉に異常なまでの忌避感を抱いていたくらいであった。しかし、時代は進み、いつのまにかそこまで嫌悪をもつ単語でなくなり、自分が使うにまで至った。なんということだろう。今もし過去の自分が会いにきたとしたら。きっと、今やっていることに驚きや賞賛もあると思うが、それと同じくらいさまざまな面でがっかりするだろう。過去の自分に胸を張って生きるということに対しては、わたしはそこまで気にしていない。なぜならその頃には存在しなかった価値判断の基準で動いているからだ。それでいいと思っている。それにしても、だ。ふん、まあいい。ここまでの文章は所詮独り言である。この問いを繰り返さずにはいられない、なぜわたしはここまでしにたいのか。いや、厳密にいうとしにたくはない、生きたいからこそ未来を見るたびに絶望感に苛まれ、目を逸らしてしまうのだと思う、その感情を表す簡単な言葉が「しにたみ」なのだ。可愛く言ってないとやってけねえんだって。







キラキラしたその子はわたしに不思議そうな目を向ける。
「なんでそんなに篭ってるの、たのしいよ、こっちにおいでよ!こんなに楽しいことがあるよ、ほら!見て!」
ああ、そうだね。わたしは菩薩のような微笑みでふわりと返す。知ってるよ、こうこうこう楽しいんでしょ、いいね。とっても輝いてみえる。そのまま楽しんで。あなたには幸せでいてもらいたいな。わたしはここから動かない。
そうすると決まってその子はわたしに近づき、わたしの目の中をじっと覗き込んで、心の中を洗い流すような眼差しをお見舞いしてくるのであった。わたしは洗浄されたくなんかなかった。居心地が悪い。ほうっておいて欲しかった。もはや、責められている気さえした。最悪な失敗をした日にたまたま近所のおばちゃんに会い「今日はどうだった?」なんて聞かれたような。わたしのことなんか、知らないでくれ。助けようとしないでくれ。たとえきれいになったところで、大元の、根本の、わたしの心臓の部分から腐敗が始まっていて、いくら掃除をしたって元の状態になるのは時間の問題なのだ。毒は体を回る。それは半ば諦観の境地に至るようなものであり、なんとかしようとしてできるものでもない。わたしは、これは分からない人は分からない、ということもまた同時に悟っていたのである。
だが、これも残酷なことに、このしにたい人間は、変えられるのも自分しかいないということを知っていた。地球というものと人間を作ったものがいるのなら、これこそが最大の欠点、汚点だとこの人間は考えていた。いつも世界を変えられるのは、己のみなのだ。

そうこうしているうちに、その子の興味は次のものへと移る。わたしが何も反応をしたり、変える気がないと見たようだ。彼女には、可能性のないものはバッサリと斬るある種の強い無知さがあった。そんなことを考えて、なぜか、少し憂鬱な気分になった。いや、理由は明確だった。わたしの世界からはこれの繰り返し。きみはどう見えているのだろうか。きみに理解してもらおうだなんて、これっぽっちも思ってないと思ってるのにな。

どうも〜