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#5 父のお墓まいり

 母に誘われて父のお墓まいりへ行った。今年、清明節は西暦4月5日になるが、清明の時に行くとものすごく混むから今行こう、と母が言う。お墓に行くときちょうど開くようにと、週末の花市でまだつぼみが固く締まっている百合を選んで買ってきていたが、2日待っても開かない。3つ付いているつぼみはどれもすっぽりネットにくるまれていて、あれ取ったら開くよ、とママは言うけど、取ってみても開かなった。つぼみ3つが1本150元、つぼみ2つは100元だった。

毎週土日、建國南路の高速下の駐車場が花市になる。


 冠婚葬祭は日本でもよくわからないので見よう見まねだが、台湾の冠婚葬祭についてはもっとわからない。母に聞いても、あれは全部カハツの習慣だからママよくわからない、と言う。父が死んだ時は、親戚中のおばというおばがみるみる集まり、死亡證明書の受け取りから饊宴のレストラン予約まで、万全のサポート体制があり、母がうろたえている間にわいわいあわただしく、父の死にまつわる一連が始末されていった。今の台湾という世の中に住んでいれば、タイヤルもカハツのようにお葬式をしないと、この社会の中で死者を弔った気持ちになれない。父が死んで13年、私たちの家族もいろんな人がこの世を去って、母も辦喪事について前より詳しくなっている。

 出かける前、母に何か赤いものがないか聞いた。たしか一番最初に父のお墓まいりに行った時、おばから、エリちゃん、妳一定要帶紅色的東西放在妳的口袋裡、と言われたのだった。このおばというのは母の年長のいとこで、7人兄弟の長女である母が、小さい時からずっと姉のように慕ってきた人だ。すごく美しい人で、そのへんの美人とは次元が異なるというか、顔やスタイルはもちろんのこと、手の形、指の形、爪先、足先、隅々にわたるまですべからく見事に、ザ・美、という形をしていて、おばを眺めていると、もはやこれは彼女個人がきれいとかそういう話では収まらないもっと大きな真実なんじゃないかという感覚になる。愛想笑いを全くしなくて、目にはいつも鋭さがあって、目が合うとまるで、
 「美です」
と背後から声がしてくるような、そしてそういうふうに目が合った時におばが口を開いて言うことは、まるで絶対真実のお告げのように私の中に残る。そのようにして言われたのが、お墓まいりの際はポケットに赤いものを入れろ、だった。おばの息子は、まだ高校生で川で溺れて死んだ。母と私はあの時もう日本に越してきていてお葬式に行けなかったが、あんな死に方をしたのでおばはあちこちに聞いて息子のために特別な拜拜をして、その時にカハツのお参りのやり方をいろいろ覚えたはずだと母は言う。

 「そこに置いといたからね」
と母が指さした棚の上を見ると、紅包袋の切れはしが一つ置いてある。ああ、そういえば前にもこんな感じのをおばさんがお墓まいりの前にくれた、と思い出しながら、ママもこういうことがスッとできるようになってるんだ、と同時に思う。ポケットに赤いものを入れるのは、この世にまだ未練のある霊が墓場から一緒についてきてしまうのを防いでくれるかららしい。
 ママは赤いのいらないの、と聞いてみると、
 「こんなの着てる奴、誰も嫌がってついてこないでしょ」
と、見てると目が痛くなるような真っ赤のトレーナーを着た母がたくましく答える。

 母には冠婚葬祭にちょっとしたトラウマがあったと思う。私もたぶんそのトラウマを少し受け継いでいる。母と日本に引っ越して最初の年、はじめて通った日本の小学校で、校長先生だかどなたかが亡くなり、体育館で保護者一同を集めたお別れの会のようなものがあるというプリントを学校で渡された。母はクローゼットの中から、白いブラウス、白いスカートを出してきて、白い百合の花束を持って出かけていった。きれいだなあと思いながら私は母を見送ったが、そのあと家に帰ってきた母は、げっそりした顔で、
 「みんな黒い服着て、ママだけ白だった。」
と言った。台湾だとお葬式はみんな白い服なのに、とあの時母は言ったが、当時小学校2年生だった私はまだお葬式の体験が一度しかなく、亡くなったおばあちゃんのお姉さんのタイヤルの山の家で、たくさんいる大人たちの間をいとこと一緒に遊び回った記憶しかない。あの時白い服着ていた人など誰もいなかったと思うが、平地でカハツたちが白い服を着てお葬式に行くのを、母はどこかで見ていたのだろうか。80年代の東京、数百人の喪服姿の日本人の中、まだ日本語もよく話せなくて、痩せてて少し内気だった母がたった一人、全身真っ白の服で白い百合を持って立っているしかなかったかと思うと、私は汗が出そうだ。


 父の遺骨がある靈骨塔はうちから行きやすい。歩いてすぐのバス停から、バスで15分くらいのところに靈骨塔行きの送迎バスの待合室があり、そこからバスで5分ほど山をのぼれば着く。そのアクセスの良さと、有名人の誰々のお母さんもそこに入ってるんだって、というおばたちの強い勧めにより、母はそこに父の遺骨用ロッカーを一つ買った。靈骨塔のエレベーター横の掲示板には、その有名人が骨壺を持ってそこに入ってくる大きな写真が載った新聞のページが、よく見えるように貼りつけてあった。

 平日の午前中、まだ清明まで1ヶ月ほどあるが、30分に一本の送迎バスは満席だった。和平東路をまっすぐ走り、市街地から少し外れて、窓の外の緑が濃くなってくると、父の遺体を乗せて火葬場へ向かったことをしばらくぶりに思い出す。父の葬儀は2月で、あの時もこんな道だった。遺体を運ぶバンの運転手さんが、私たち家族がみんな車に乗り込んだのを確認し、今から火葬場に着くまでの間、遺体に道順をしっかり伝えるように、と言った。父の遺体が入った棺は後部座席の私の隣に置かれていたが、何を言われているかよくわからず、私はとりあえず黙ってお棺を見た。母が何か言ってくれるかと思って待ったが、助手席に座った母は黙ったままで、すると運転手さんが、ぐるっと父の入った棺の方を向き、
 「出發了!!」
と急に大声を出し、車のエンジンをかけた。そこでハッと理解したのか、母も急にこちらを振り返り、 
 「今から出発しますからね!」
と、棺に向かって、日本語で大きくハッキリと言った。私は驚いて、すぐに声が出なかった。車を前に進ませながら、運転手さんは、あなたたちは霊にちゃんと伝わるように目的地までしっかりナビしていかなくちゃいけない、じゃないと途中で霊が道に迷って地縛霊になってしまうでしょう、と指導した。その後もしばらく運転手さんの先導で、
 「次、右に曲がるよ!」
 「左轉!」
 「今信号待ち!」
 「青、進むよ!」
と、運転手さんは中国語、私と母は日本語、慣れてくるまで、みんな一緒に大きな声で進路を叫び続けた。運転手さんによれば、トンネルは霊魂たちが特に道に迷いやすいポイントで、
 「今からトンネル入るよ!」
 「今出た!」
というところで私たちは声を特に大きくする。 

靈骨塔から下る道。


 山の上の靈骨塔は全部で3棟あり、どれもちょっといいグレードのビジネスホテルサイズの大きく頑丈なビルで、向かって左2棟が仏・道教、右1棟がキリスト教、父はキリスト教棟に入っている。この棟の1階は礼拝堂になっていて、覗くと、おそらくさっきまで葬儀をされていた女の人の遺影が立てかけられたままになっていた。そういえば私、ここでオルガンを弾いたんだった、と思い出した。まだ今のように人前で歌ったり、ピアノを弾いたりする前、子どもの頃習っていたのでちょっとピアノ弾けます、という30歳だった頃、それだけが理由で父の葬儀のオルガンを私が弾くことになった。まさか自分にそんな役が回ってくるとは思ってもみなかったが、葬儀にあたっていろいろの取り決めをしている中で、おばの誰かが、
 「エリ會彈鋼琴啊」
と言い出して、何のことかと思っている間に、私はオルガン奏者に決まり、聖歌の楽譜を渡された。葬儀の日が近付くと、タイヤルどころかブヌンの方の親戚までどんどんやってきて、毎日みんなうちのピアノを取り囲み、練習だから、と昼も夜も何度も歌って、そのたび私は伴奏をし、この人たちはもしかして歌いたいから手伝いに来てるんじゃないかと疑いたくなるほど熱心に練習を重ねた。

 私の父は日本人だったが、宗教全般大大大嫌い、どうしても選べというのなら神道、仏教なんて大嫌い、宗教なんて信じる奴は全員バカだ、といつも言い続けた人間だった。父のことを思うと、死人に口無し、という言葉がいつも頭に浮かんで、私は心でニヤリとする。私の原住民の家族は、今の大多数の台湾原住民たちがそうであるように、ほとんど皆クリスチャンだ。死ぬまでの5年間、台湾で母と母の家族に介護され、そのまま台湾で死んだ父は、最期を看取り実際に葬儀を行った母の家族=原住民クリスチャンたちの手によって、十字架のついた棺に入れられ、十字架のついた骨壺に入れられ、今も十字架のついたロッカーの中に入っている。ここのロッカーの十字架は、ゴールドの土台の上にラインストーン、十字の交差部分には赤い大粒の石があしらわれたゴージャスな仕様だ。十字架の周りにシルバーの鳩たちが羽ばたいている。私と母はつぼみのままの百合を、靈骨塔のトイレで汲んだ水に活け、キラキラのロッカーの中、ガラスの仕切りの向こうの父の骨壺に向かって手を合わせる。骨壺には父のカラーの顔写真が貼り付けられていて、こんな顔だったっけか、と思う。時々夢で見る父とは違う人みたいだ。向こう側のロッカーの方では、さっき下の礼拝堂で葬儀を行なってきたであろう家族が静かに手を合わせている。私たち、原住民クリスチャンの家族一団は静かでなどなかった。私たちは礼拝堂のオルガンの私の伴奏などでは歌い足りなかった。5階に上がり、父のロッカーの前、私たちは大きな声で歌った。全員で、アカペラで、奇異恩典を歌った。アメージング・グレースだ。私たちのアメージング・グレースに歌詞はない。ハレルヤ!とひたすら繰り返すのだ。歌ってみればすぐにわかるが、このメロディにハレルヤではすぐ字余りになる。
 ハーレールーヤー! ハーレールーヤー! ハーレールーヤー!
 その次、そこは「ハーレー!」でいいのだ。ハーレー!
 ハーレー!
 

 家に帰ってきて、ポケットの中に赤い紙切れを入れたままになっていたのに気がついた。
 「これ、どうするんだっけ?」
と母に聞いた。あ、それね、途中で捨ててくるんだよ、一緒にくっついてきちゃうから、と母が言った。そういえば靈骨塔から下りてくる道の途中、紅包袋の切れ端がいくつか道ばたに落ちていた。あれはそういうことだったのか。父か、さっきの遺影の女の人か、それとも別のどこかの家のご先祖か。私は、ちょっとうちに寄るだけだったらいいけど、你剛快回去、ちゃんと早く帰ってね、と言って、キッチン裏のベランダの、愛之助のうんちが入った燃えるゴミの袋に、赤い紙の切れ端を捨てた。






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