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桜巡り(短編小説)

 桜が散っていた。
 私の足元では桃色の花弁が、歩道を覆いつくしていた。こんなにたくさんの花弁であるのに、しかしここに植わっている桜の木は立った一本なのである。そのたった一本の桜の木は、見事な古木、大木であった。私はその堂々たる姿に見とれていた。その間にも、桜は次々と散っていく。不思議なことには、それだけ沢山の花弁が散っているというのに、桜の木に咲く桜の花は、ちっとも減った様子が見られないのである。永遠に散り続け、咲き続けるとでも云うように、私の頭上に桃色を降らしていく。私はただただそれを見つめながら、黙って立っている。
 もし、と声がしたのは昼ごろだった。金縛りにでもあったかのように身動き一つしない私に、一人の女が声を掛けてきたのである。振り向き見れば、其処にいたのは何処か見覚えのある、しかし何処で見たのだか全くわからない、髪が長くそれを結わえた女だった。もし、と女はまた云った。これまた聞き覚えのある、鈴を転がしたような声だった。

―――もし、其処で桜を見ていますのは、何か理由がございますのでしょうか。

 私は無いと答えた。桜を見るのに、どうして理由など要ろうか。女は私の答えを聞き、俯いて云う。

―――理由が無いと仰りますのは、つまり、桜を見て何かを思い出すなどということもございませんのでしょうね。

 全く以ってそうである、と私が頷くのを見て、女はその黒々とした小さな瞳で私を見た。
 私はどきりとした。何処かで同じ瞳を見たような気がしたのだ。
 だがしかし、次の瞬間には、その、後悔と罪悪感を含んだ感情は、また私の心の底のほうに引っ込んでしまった。女は云う。

―――私もここに立って、貴方様と一緒に、桜の散るのを見ていても、良いでしょうか。

 私は別に構わない、と答えると、女は静かに私の隣に立った。

―――桜が、どうしてこんなに美しく咲くか、ご存知でしょうか。

 知らない、と答えると、女はそうですか、と呟き、黙ってしまった。先ほどまでの私と同じように、身じろぎ一つさえしない。
 私はいつの間にか、桜でなく女のほうを見ている。何故だか、この女はこの桜の下に埋まっているもののような気がしていた。桜の下で、根に養分を吸われながら、徐々に干からびていく、そんなモノのような気がするのである。
 女はじっと動かない。じっと動かずに、自分の頭上にある、聳え立つ桜の古木に魅入られたように見入っている。女は、瞬き一つせず、私の隣で立ち続けている。私は、女から眼を逸らすことができずに、隣に立ち続けている。

―――桜が、こんなに美しく咲く理由を、お話いたしましょうか。

 私は要らない、と答えようとした。だが、気づいたときには頷いていた。
 女はつと伏し目がちだった黒目を上げて、私を見上げた。
 私はその中に――その、黒々とした池のような、底なしの沼のような、静かな湖のような波紋の中に、おびえきって引きつった、私自身の顔を見た。
 女が口を開くのと同時に、私は女の首に手をかけていた。女が何も言わぬうちに、絞め殺さねばならない。
 女は口を開いたまま、私を見つめ続けた。私は首にかけた手に力を入れ、その顔が苦痛に歪むのを唯待った。しかし、女の顔は涼しげなままだった。その口元には、うっすらと笑みすら浮かんでいるようだった。私は益々手に力を入れた。最早女の気道は、完全に塞がっていた。女も、もう呼吸などしていなかった。死んでいた。死んでいたのに、カヲは笑っていた。眼も私を見つめ、口元に微笑をたたえていた。
 私は、女が完全に死んでいるのを確かめて、その眼と口を閉じた。閉じてから、まるで当然のように、桜の根元に大きな穴を掘った。そして女をその中に入れて、また土を被せた。女は桜の古木を仰ぐような形で、土の中に埋まった。
 私は其処から少し離れた場所に立って、桜の木を見上げた。とても美しい桜である。
 私の足元では桃色の花弁が、歩道を覆い尽くしていた。私はその堂々たる姿に見とれていた。

 もし、と声がしたのは昼ごろだった。


《10年以上前に書いた短編小説です。夏目漱石「夢十夜」や梶井基次郎「桜の樹の下には」の影響を受けているのがよく分かります。投稿サイト投稿時の題は「桜花下」でした。》

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