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貴方のお仕事(ショートショート・天使と悪魔シリーズ35話)

【天使のことが大好きすぎる悪魔と、彼に惹かれていく天使の、見た目BL小説群の35話目です。(これまでの話はマガジンをご参照ください)】

 悪魔は夏の間、忙しい。人々が開放的な気分になり、行動範囲や活動時間帯が広がるからだ。それに合わせて、天使も忙しくなる。そうした悪魔の活動を牽制するためだ。そのため、私と彼とは、夏の間中、ほとんど二人きりで会うことが出来ない。
 そんな中、どうにか予定を合わせて久々に会ったとき、愛する悪魔は嘆息を漏らしつつ話してくれた。
「誘惑も簡単なことじゃないんだぜ。俺のご主人サマの悪魔遣いの荒さと言ったらない。海辺に保養に来る政界関係者を、女性の姿で誘惑して掌中に入れろとさ。簡単に言ってくれる」
 そう、確かにそう言っていた。
 姿形は変わっても、彼の、燃える炎の魂を隠した瞳は、すぐに分かる。だから海辺で妙齢の女性の姿をとった彼を見つけたとき、私は危うく声を掛けてしまいそうになった。悪魔としての仕事中に、天使である私が迂闊に声を掛けるのは良くないと、思いとどまったから良かったものの。
「しかし、あいつは私に気がつくだろうか……」
 思わず独り言が漏れる。姿を変えているのは彼だけではない。私もだった。
 白いレースのような飾りのついた女性用の水着は肌にぺたりと張り付き、いつもと勝手が違って、少々、動きにくい。今日は久々に女性の姿をとって、不埒な衝動に身を任せそうになっている人間を諭し、その心の孤独を癒してやるようにと、上司から指示されたのだ。男性の姿よりも女性の姿の方が、そういう人間を見つけやすいと大天使が言うのでそうしてはみたが、早くもその指示への疑念が湧いてきていた。
「へい彼女、可愛いね。今、暇? 良かったら俺たちとクルージングでもどう?」
 目の前でへらへらと笑う男たちの心の中には、確かに不埒な心がある。しかし、それは至って平均的なものだ。誰の心の中にでもある、普遍的なものだ。大天使が言っていたような、あと一歩で深い闇へ堕ちてしまいそうな、ぎりぎりのものではない。
 だから私は、今日で五度目となる口上を述べる。
「お誘いありがとうございます。でも、そろそろ連れが戻って来ますので」
「ええー、マジかー残念」
 特に残念そうでもない男たちは波のように引き、私はまたひとりで浜辺を歩き出す。
 バカンスで浜辺はごった返し、家族連れに恋人同士にと賑わっている。ちょっと見た限りでは、空気には愛情が満ち、人々の楽しい感情が相互的に作用して、天使には心地よいばかりだ。こんな中に、大天使が言うような人間が、本当にいるのだろうか。
 そう思って歩いていると、また、数人の取り巻きを連れた男に声を掛けられた。
「ねえ君、ひとり?」
 ああ、こういう人間のことか。
 その男を見て、私はすぐにそう思った。見た目はどこにでもいるような穏やかそうな男だが、内心には何か、巧妙に隠そうとしている、どす黒いものがある。
「はい、ひとりです」
「へえ、こんなに可愛いのに」
 男はじろじろと、私の全身を舐め回すように眺めた。清純な人間の少女であったならば、その無遠慮な視線に、いたたまれなくなったことだろう。
 男は不意に私の腰を掴んで、引き寄せた。どうすべきか一瞬迷ったが、こういう人間の孤独を癒すのが目的なのだから、抵抗すべきではないと判断した。おとなしくされるままの私に、男は笑う。
「へえ、抵抗しないんだ。もしかしてオレのこと……」
「貴方が大臣の愛息子であることは、よく存じ上げておりますわ」
 男の言葉を遮り現れたのは、黒髪に黒い水着の女性……私の悪魔だった。
「なっ」
 たじろいだ男の腕にするりと自身の腕を絡め、悪魔は瞬く間に私を男から引き離した。上目遣いに彼を見上げ、悪魔はその、殆ど肌が剥き出しの胸元を押し付ける。
「こんなお嬢さんよりわたくしの方が余程、貴方を楽しませられますのに。わたくし、さっきからずっと貴方に声を掛けようと思っていたんですのよ」
 甘い声でそう囁かれ、男の口元は歪んだ。
「そ、そうか。それもそうだな。それじゃあ親父のクルーザーにでも……」
「そんな、まどろっこしい。どこか落ち着けるところに案内してくださらない」
 悪魔の指が、男の脇腹をそっと撫でる。男は焦ったように、その手を握った。
「わ、分かった、行こう」
 呆気にとられる私の目の前で、男たちが急ぎ足で去って行く。私の悪魔を連れて。
「えっ、あ……」
 思わず追いすがるように腕を伸ばした私に、瞬間、振り向いた悪魔が首を振った。何もするな、ということらしい。
 私は腕を下ろし、遠ざかっていく彼らを見つめるしかなかった。

「まったく……あのボンボンが俺のターゲットだったから良かったものの、そうじゃなかったら気がつけなかったかもしれないぞ。天使サマ、仕事のやり方というものをもう少し考えてくれ」
 海辺の邂逅の翌日、私のアパートを訪れた彼は、前に来たとき同様に、大きなため息をついた。私は私で、仕事の邪魔が入ったということとはまったく違うところで、何かモヤモヤするものを感じていた。これは、確か前にも感じたことのある感情だ。確か……。
「天使サマ、聞いてるか?」
「聞いてるさ。大丈夫だよ、私は人間の少女ではない。自分の身くらい守れたし、彼の魂を善に導くことだって出来たさ」
「いや、危なかっただろ。あのな、ああいう根性の腐った人間は、見ず知らずの女子どもに諭されたくらいで宗旨替えなんかしない。それ以前に、常時、麻薬と睡眠薬を隠し持ってるような男に、人間の身体で太刀打ち出来ると本当に思ってるのか」
 悪魔の言葉に、愕然とする。麻薬と睡眠薬……確かに何世紀も昔から、魂の汚れた人間はそういうものを使って他の人々を陥れてきた。だが、昨日の男がそこまでだったとは、まったく気が付かなかった。
「……まあ、俺が天使サマに偉そうに言えた話じゃないんだが……」
 不思議なことをちらっと言い、悪魔は私の髪を撫でた。
「とにかく、お前の身に何もなくて良かった。いくら奇跡を起こせると言っても、人間の姿のときに薬物で意識を混濁させられては、どうしようもないからな。俺は俺で、任務を果たせた訳だし」
「……! それだ、それだよ。お前、あの後、あの男と……」
「あ? そりゃあ誘惑したんだから、最後まで仕事をやり遂げたぜ。やることをやって……ああ」
 悪魔はそこで、私の顔を見て、嬉しそうに笑った。
「そうか。天使サマ、また嫉妬してくれたのか。なんだ、てっきり仕事の邪魔をしたから怒ってるのかと」
「……だって、あんな……お前の仕事を間近で見たのは初めてだったから……」
 あんな風に、人間の耳元で囁いて。あんな風に触れて。そして、……。
「そんな顔をしないでくれよ、エンジェル。あんなのは単なる仕事だ。全部、演技さ。あのボンボン、俺のおだてと身体に、すっかり骨抜きになったがな……中身のない、空っぽな容器に恋したようなもんだ」
「でも、お前がいつも、ああいうことをしているんだと思うと……」
 言葉に詰まる。
 悪魔の言うことは分かるが、演技なのだとしても、そういうことをしているのだと考えることが、既に胸を重くさせる。私以外の誰かと、そんなことを……。
「ああまったく、俺の天使サマは、本当に可愛くて困るな」
 悪魔の声が耳元で聞こえ、気がつくと、そのがっしりとした腕の中に抱きしめられていた。冷たい体温に、甘い吐息。胸の中はまだざわついているが、ひどく落ち着く温度に、目を閉じる。
「俺にとって、意味があるのはお前だけなんだ、天使サマ。他の何もかもは、どうだって良いんだ。分かるだろ」
「うん……」
「俺のために嫉妬してくれるのは本当に嬉しいんだけどな。それでお前が傷つくのでは困る。だから、何度でも言う。俺にとって意味があるのは、お前だけだ」
 繰り返される言葉に、いつしか胸の中のわだかまりが溶けていった。それと同時に、今までとはまた違った思いが湧いてくるのを感じる。なぜこれまで、気がつかなかったのだろう。
 私は、悪魔の優しい顔を見上げた。
「なあ、ラブ。私はお前にそう思ってもらえることがとても嬉しいけれど、なんだか少し、寂しくもあるんだ」
「寂しい?」
 不思議そうなその顔に、指で触れる。
「お前に、私だけしか意味がないなんて、悲しいな。世界はこんなにも美しいのに、お前の中に私しかいないのだとしたら、私は寂しい。お前の世界を、もっと美しくて鮮やかなもので埋めてやりたい」
「天使サマ……」
 驚いたような顔をする彼の身体を、しっかりと抱きしめる。幸福に弱い悪魔は少しふらつき、それでもそのまま持ち堪えた。
「ありがとう、天使サマ。俺は宇宙で一番幸福な悪魔だ」
「ふふ。それなら私は、宇宙で一番幸福な天使だな」
 二人して笑いあい、お互いの幸福な表情を確認して、身体を離す。そこで、悪魔が思い出したように声を上げた。
「そうだ、天使サマ。昨日のお前の姿についてなんだが……」
 何か変なところでもあったのだろうか、と思わず身構えてしまった私に、彼は照れたように言った。
「目の保養に、また見せてくれないか」

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