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過去見


 なんでも、過去を見ることの出来る女がいると言うので、ある日出かけて行った。真剣に見たい過去があったわけではなく、本当に私の過去を知るのだろうか、という只の好奇からの訪問であった。その家はごく普通の一軒家で、自分の能力を商いにしているといった風ではなかった。
 わたくしに見えますのは、と女は静かに言った。戸を開け私の顔を見るとすぐに口を開いたので、余程気がつく女であるようだ。
 わたくしに見えますのは、その方が見たくないと思っている過去だけなので御座います。
 そう、女は言う。構わないと私は言い、左様ですか、それならば、と女は私を家に上げた。勧められるままに椅子に腰掛け、私は女の正面に陣取った。女は綺麗な着物をきちんと身につけ、髪を昔風に結った、静かなたたずまいをしていた。
 女と私の間には小卓が一つあり、その上には磨かれた玉が置いてあるばかりだ。水晶なのかガラスなのかは判らないが、傷一つなくつるりと光っている。成程これが女の道具か、と私は一人得心し、女の挙動を見守った。
 では、と女は言った。
 わたくしはこの玉を通じてあなたの過去を見ることが出来ます。見た過去をそのまま、あなたに話します。それでよろしいですか。
 私は肯いた。女はほうと息をついて、目の辺りを人差し指と親指でつまむようにして揉んだ。一つだけ、あなたに注意していただきたいことが御座います、と女は静かに言った。
 わたくしが過去を見ている間、決してこの玉をご覧にならないでください。決してです。
 分かった分かった、と私は肯いた。本当に、決して見てはいけません、と女は更に念を押す。私は肯いた。
 いよいよ女は目を閉じ、そして又目を開け、今度は私ではなく、卓上の玉に、熱心に目を向け始めた。私は慌てて玉を見ないように目を逸らしたが、いつまでも女が黙ったままなので段々気になりだし、終には好奇心に負け、玉を見てしまった。
 丸い玉の内部に、何かが揺らめくように動いているのが見えた。陽炎の様にも、吹雪が吹き荒れている様にも見えるその揺らめきの正体に気づいたとき、私は口には出さずに「あ」、と呟いた。その揺らめきは、障子に映った影であった。その影は人の形をしていて、一つは大きく、一つは小さかった。
 そのことに気づいたとき、私の眼前にその光景が迫ってきた。
 パチパチと、炉の火の爆ぜる音が聞こえた。
 影の、小さいほうがせわしなく動いて、大きい影を困らしているようである。小さいほうはしきりに何かをせがんでいるようだ。「……が、欲しいんだよう」と、甲高い声で、大きい影にねだっている。大きい影はそれをなだめ、時折疲れたように首を振った。それでも小さい影は諦めずに、大きい影に何事か訴えている。やがて、何か一声叫んで障子を開けて、暗い闇へと走って行ってしまった。
 私はそのとき、耳を突いた声なき叫びを、心の中でありありと思い返すことが出来た。その声が、いつまでも耳に残っていた。
 しかし、玉の中の風景は私を待つことなく進行して行く。
 小さい影を追って、大きい影が慌しく家を出て行った。
「行ってはいけない」、と私はとうとう声に出して言った。
「子供は、私は、道路に出てなどいないんだ。門の所に蹲っていただけなのだ」。
 私は、玉の中の風景に手を伸ばした。が、届くことはない。ああ、と私は息を呑んだ。

 程なくして玉の中から、馬車が何かを跳ね飛ばした鈍い音と、人々の慌しい騒ぎ声が聞こえてきた。


《十年ほど前に書いた短編です。好きな作家である内田百閒の影響が色濃く出ていますが、今読み返しても好きな小説ですね。》

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