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環境を選ぶこと、違いを面白がること、人生を楽しむこと、結局すべては自分次第

気がつけば8月も終わりも終わり。
佐渡は朝晩すっかり涼しくなって、
布団を引っ張り出してくるまる幸せもうあじわっております。

ご無沙汰してました、お変わりないですか?

今回は、最近頭の中でくるくるしていることをつぶやきます。
(みなさんはどう感じるかな?もしよかったら感想もらえたらめちゃ嬉しいです)

テーマは「環境を選ぶこと、違いを面白がる心」みたいな。

テーマと掲げておきながら、内容とっちらかるかもしれないし、うまく言語化できるかわからないけど、進めてみます。

5月から始めた久しぶりのフルタイム勤務。

時間を拘束されるストレス、自分とはまるで価値観が違うシステム、考え方。

カチッ!ピチッ!コチッ!とマニュアルや時間によって、
判断が下され、流れていくことは組織である以上、
必要なことであるのかもしれない。

以前、先生をしていた頃は、“これが普通”と思ってた。

でも、先生をやめてフリーになり、
“自ら仕事をつくる”ということを
小ちゃいながらにもするようになったらわかった。

「自由な時間」というものが不可欠な自分にとっては、
どんなに暇でもそこにいなくちゃいけないような
時間を拘束される「働く環境」は苦痛でしかない。

どちらも経験してやっと気づけた。

*じゃあなんでまたフルタイム?というお話は、まぁ色々ありまして…
  今年度限りの限定運用。


でもね、これってわたし以外にも“これが普通”って思ってるけど、
本当はしんどさを感じてる人も多いんじゃないかと思うの。

いちばん問題なのは、わたしたちは

“組織で働く働き方“しか教わっていないということ。

そして、今なお“よき従業員”になるような教育
子供たちにし続けているということ。

昔と違って、環境は自分で選べる時代。

「うちの子、組織タイプではないわ」という方は、
その子が伸び伸び働ける、生きれる環境に連れてってあげたり、
そういう大人に出逢わせてあげるとめちゃくちゃいいと思う!


あとね、大人自身(わたし自身)にいえることなんだけど、
自分とは違う考え方や生き方、働き方を
どう受け取ろうとしてるかってのもすごく大事な気がする。

今の職場だと、
「通勤は歩いて、クーラーはつけない、薬よりアロマ」
なんて選択のわたしは珍獣のように見えるみたい。笑


お上品な言葉で返されても、
その人が心の底でそれをどう思ってるかは伝わるもので、
「そんなの変(おかしい、間違ってる)」と感じているか
「面白い!(興味深い)」と感じているかはなんとなくわかる。

みんな自分の中の“正しさ”で生きている。
みんな一人一人にとっての“正義”は違う。

ただ、それを否定したり、自分のものさしでジャッジをくだすのではなく、
自分の世界に面白がって入れてみると、目の前の人に対する見え方が変わる。


結局は、どこまでいっても自分次第なんだ。
環境も、面白がれるかどうかも。


わたしたちはこれまで“正しく生きる”ことを教わってきた。

でも、それでみんな幸せになったんだろうか?
居心地のいい社会になっただろうか?


正しさと楽しさは違う。
正しさと幸せも違う。


時代は変わり、みんなにとっての“正しさ”や“正解”が
どんどんなくなってきている今、

正しさで生きるより、楽しさで生きる方が、
結果社会全体もよくなる気がする。

そのためにひとりひとりに不可欠なのは、
“違いを面白がれる心”の余裕をもっていられるかどうか
なんじゃないかな。

違って当たり前の大前提の上で、
自分の受け取り方を変えてみる。

別に全部をぜんぶ受け入れることなんてしなくっていい。


これも海外に出てみて衝撃受けたけど、
海外の人は、自分がどう見られてるかとか、
他人がどうしてるかとか気にしてない(ように見えまくる)。

他人の目を気にしている暇はないわ、
わたしの人生を楽しまなくっちゃ的な…


正しさで選ぶより、楽しさで選ぶことに最初は躊躇する人もいるかもしれない。 周りの目が気になる人もいるかもしれない。

でも、したいのに、どうしてもそれができないという人は、
今いる環境が自分にはあっていないのかもしれない。

それぞれの環境にルールやきまりがある。
(ルールがないのもその環境のルール)

そこに居たいのなら、そこのルールにならうことは必要。
でも、そこが合わないのなら、別の環境を選んだっていい。


これも結局、自分次第なんだ。


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