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自己紹介

私の名前は「神田えり子」だ。本名は「依理子」と書く。「よりこ」と読み間違えられることが多いので、世話になっている人に提案されて何年か前に料理の仕事では「えり子」とした。

幼少の頃から「えりちゃん」と呼ばれることが多い。年を重ねて交友関係が広がると、「えりさん」呼んでくれる人も増えた。大学生の頃は「えりこ」と言われることもよくあった。

彼氏に「えり」と呼んでほしいと頼んで、特別感を感じていた頃もあったが、思い出すだけで恥ずかしくて胸がかきむしらるようで、走り出したくなる。呼ばれていた事実や音の響きよりも、それに価値をもたせていた自分に発狂しそうだ。

呼び名によって、私もそれに合わせて話を選んだり、所作を無意識に変えているところはないだろうかと考える。「えりちゃん」の私は、いつも姉に助けてもらっていた子供の頃のような、次女らしいちょっと優柔不断さで、のらくらとした態度を。「えりさん」は自覚ある大人としての対応を。「えりこ」のときは、相手と対等であるということを感じていたかもしれない。「えり」のときはどうだろう。甘えたり、逆にすかしたりしていたのだろうか。

最近、渋谷のスタバで時間潰しをすることがあった。レジで店員に、注文したドリンクをカウンターで受け取る際の呼び名の希望を聞かれた。

ちょっと前は、「人の注文したものを取ったりしませんよ」という佇まいを、レシートを手にして待つことで醸し出してドリンクの出来上がりを待っていたものの、いざ「ショートサイズのラテのお客さま」と呼ばれて取りに行き、手にしたレシートを店員に差し出しても、さして確認されずにラテを渡されるってシステムだったのに、今の東京のド真ん中のスタバではそれはなくなっていた。

だから余計に、私は狼狽した。ここは銀行や病院の受付じゃないので、雰囲気的にフルネームは求められてはいない。

スタバはシアトル生まれのコーヒーショップだから、ノリ的には「えりこ」と呼んでもらうのがふさわしく感じたが、私は自己紹介で自分の下の名前を言うことを40代半ばになっても躊躇してしまう。

例えば、若い頃ならバーに飲みに行き、カウンターの隣の人と会話する。そうして男性に限らず、女性であっても「お名前は?」となる。そこで相手がファーストネームを述べてきても、私はちょっと構えるのである。

酔っ払っている者同士の、どこかあっさりした出会いには「えりこで〜す」と応えるのがふさわしい気がする。普段人見知りな私だが、酔っているときは知らない人にでも、肩を組んでしまえる勢いだ。コロナ前は、出会いを祝して握手さえした。なのに、そんな時でも自己紹介だけは少し身を構えてしまう。

なぜだろう。私は「えりこ」なのに。急に距離が縮まることが怖いのか。名前は気に入っている。祖父に付けてもらった本名の漢字も、読みにくさも含めて私らしい気がするし、「おじいちゃん、ナイスセンス」と思っている。

直面した場面で、どの私でいるべきか、下の子体質な私か、自立した私か、人と対等に渡り合える私か、ちょっと甘えたな私か。スタバで呼び名を聞かれたことで、自分軸でものを考えられない性格が露呈するとは。

大都会のスタバのレジで、とうとう私は「神田です」と答えた。もちろん、名字でお願いする客は私だけではないはずだ。50代のおっさんだってスタバには来るし、ここで「りゅうじ」や「たかゆき」と呼ばれようとはあまりしないだろう。

店員は何も気にする様子もなく、会計を済ませてくれた。

カウンターで待っていると、私の前のドリンクが出来上がり、店員が「Rさま」と呼んだ。二十歳前後くらいの色白の女の子が取りに来て、こういう手もあるのかと驚いた。イニシャル。若さを感じた。

かと言って、私が「Eと呼んでください」とレジでお願いすることは想像しにくい。店員に「この人エミっていうんかな」とか「わあ、なんか秘密主義!」と思われるのも恥ずかしい。そんなに正々堂々とした態度でスタバにいたいなら、やはり本名の「えりこ」でいけばよかったではないか。そう、対等な立場で。

ちなみに、「神田」は元夫の名字で、別れた後も便宜上使っているのだが、これには自分でも不思議なくらい全く抵抗がない。

自分は何者であるのか、それが理解できる日が来れば、下の名前をどのように呼ばれても自意識が過剰に発動せず、自己紹介もすんなりとできるのだろうか。

考えているうちに、「神田さま」と呼ばれ、カフェラテがカウンターに置かれた。

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