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3.11


1日遅れだ。


そこがまた私っぽい。
3月11日に書き上げられなかった。
そういうとこだよね。
私のそういう所を、私は理解しているつもりなので、私はこんな私とずっと付き合っていく。
覚悟はできている。


11年前。
もうそんなになるんだな。
私は大阪の病院で仕事していた、よく覚えている。
仕事から帰って、家でテレビをみると東北地方が悲惨なことになっていた。
家で一息ついている私と、あまりに状況が違いすぎて、全然リアリティを感じなかった。
だが、時間と日にちを経て、毎日毎日伝えられる東日本大震災の映像は、どんどんリアリティを増していく。

その頃は、本当にたくさんの映像を見た。
見るたびに何とも言えない気分になった。
そして、怖かった。
自然の猛威が。
人間の非力さが。
ただただ怖かった。
何人もの手で時間をかけて出来上がった建物も、文明の利器も、こともなげに全て海が飲み込んでしまった。
いかに人間がちっぽけなのかを、あけすけにされた。
画面を通してではなく、それを間近で見た人たちや、すぐそこに襲ってくる津波から必死で逃げた人たちの気持ちを想像すると、心臓がギュっとなって、吐きそうになった。
その悲痛さを直視できない自分の弱さを知った。

そうか、あれから11年になるのだな。

助かった人、助からなかった人、震災前からずっとそこに住んでいた人、たまたまそこにいた人・・
みんな、2011/3/11に命を脅かされたり、命を落としてしまうなんて思ってなかったはずだ、絶対。
人生は本当に何が起こるか分からない。

私はありがたいことに、今日も元気に生きている。これといった不調もなく、一丁前にお腹を空かせたりして、今日は何を食べようか?などと考えたりしている。

命があることは有り難い。

私は、たまたま11年前のあの日にあの土地に居なかっただけだ。
たまたま、生き延びられている。

たまたま生き延びられている私は、命を落としてしまった人達に恥じない生き方をしなければならないと思う。
もし、命を落としてしまった人が、社会貢献できるすごい力を持った人だったなら?誰かの病を癒すことができるすごい技術の持ち主だったら?そんな素晴らしい人たちが命を落として、たまたま私が生かされている意味とは?

生かされている、与えられた命を私はどう使うのか?

生きたくても生きられなかった人たちに、恥じぬような、認めてもらえるような生き方をしているか?

生きている時間を無駄にしてはいないか?

数年前から、そんな事を強く思うようになった。2011/3/11の出来事がそうさせているのは確かだ。
もっと言うなら、1995/1/17だってそうだし、2008/6/14だって、2016/4/14だってあった。これらを全て生き延びている。たまたま。

夥しい数の、生きたかったけど生きられなかった人たち。
だが、私は生きている。
ありがたいことに。

さあ、どうする?

私ができることなんて、たかが知れている。
本当にちっぽけだと思う。時間はあんまり無いし、お金もあんまり無いし、人脈なんて笑えるくらい持ってない。
でも、与えられた命、生き延びている事への感謝を無駄にするような生き方だけは、絶対にしたくない。
命を燃やして、この命を全力で使って、何かしら社会に貢献したいと思う。心から思う。

頑張ります。

たまたまでも、生き延びてくれて良かったなと思ってもらえるように。
与えられたものへの感謝を、ちゃんと背負って生きていける人間でありたい。


被災された皆様に
どうか、心休まる時間がありますように。
笑顔を取り戻せる瞬間がありますように。

亡くなられた方々に
心から追悼の意を表します。


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