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人生の棚卸し② 幼馴染の死との向き合い


②私がすがりついていた幼馴染の死


苦しくてどうしようもないとき、死にたい!と思うことが私にはあった。
そんなとき思い出すのは、幼馴染のみかちゃんのこと。当時、人見知りで家族以外には懐かない私は、みかちゃんのことが大好きだった。
そんな彼女は、小学校1年生のときに脳幹の癌が見つかり、小学校2年生の10月に亡くなった。
私の小学校の記憶は5年生からしかない。小学校1~4年生の記憶で思い出すのは、みかちゃんとのたこ焼き屋さんごっこ、髪の毛がすべて抜けて車いすに乗り学校や公園にいて私は遠目で眺めていたこと、彼女の死んだ日にお母さんが電話口で大号泣だったこと、その日の私の服装と見上げた空が晴天だったこと、亡くなった彼女は綺麗な顔で白いドレスを身に纏っていたこと、お通夜とお葬式、何度も通った彼女の家の仏壇。
彼女の記憶しかないほど、幼い私には衝撃的な彼女との日々だったのだと思う。

中学2年生、私は彼女にどうしても会いたくて、手紙を紙飛行機にして空に飛ばしたこともあった。会いたいと願っても夢には出てきてくれなかった彼女が、祖母が急死した翌日に私の通っていた専門学校の友人とともに、夢に出てきてくれたときは、大興奮するほど嬉しかった。

幾度となく、人生に苦しみを感じ、死にたい!と思った時、いつだって私は「みかちゃんが生きられなかった日々だし、彼女のために生きよう」、かりゆしのさよならの歌詞「僕が生きる今日はもっと生きたかった誰かの明日かもしれないから」も流れ、死にたい欲を止めていた。

そんなとき、「彼女はとっくに自由な場所へ戻って、とても幸せなんだから、こっちの世界で執着を持たれない方が良いんだよ。みんな源に還り、また旅に出る。生命は永遠で本当は死などないんだよ。」と言葉をかけてもらった。

私は、一方的に彼女にすがって生きていた。彼女を忘れることへの罪悪感や忘れるなんて最低だと思って、定期的に思い出すようにしていた。亡くなる事=かわいそうや不幸であると決めつけていた。

本当にそうなの?と自分に問いかけたとき、自分の思い込みや執着であることに気づいた。そして手放すことを決めた。

誰かの為に生きる方が楽だと思う、ある意味言い訳にできるときもある。でも誰かの為に生きる、ということは自分の人生を生きていないことになるのかもしれない。自分の人生を自分の為に生きる方がよっぽど難しい、と私は感じる。生きる理由=みかちゃんを手放したとき、私は何のために生きたらいいのかわからず、死にたい欲が大爆発した。止められるものがなくなって、大絶望した。それはつまり、彼女を手放せた、ということでもあった。

そして不思議なことに、その後、死にたいと思わなくなった。今までは彼女に甘えたかった、彼女を生きる意味にしてすがりついていた。苦しくたって、暗闇で絶望感に溢れたって、「死にたい」と思わなくなるのが、自分の人生に責任を持ち、自分の為に生きることなのかもしれない。

心の中で手放すと宣言して、彼女を思い描いたとき、彼女は笑っていた。
彼女の家に行き、仏壇の前で手放す、と宣言したときも、彼女は笑っていた。その仏壇の前は、私が人生の節目ごとに、なにかを宣言してきた場でもあった。だから手放すという宣言も仏壇でもやりたかった。
今まで、行ける時にはお盆や命日・私の人生の節目に仏壇に手を合わせに行っていた。これからはこの頻度では行かない気がする。行きたい、と感じたときにまた行けばいい、そんな気軽さでいたい。

大切な人の死ほど、手放すのは物凄く怖い。手放さなければならない、とも思わない。彼女が8歳で亡くなり、私が30歳で手放した。22年かかった。執着し続けたことになんの後悔もない。私の人生は彼女ありきだったとも思う。なんせ彼女は私に看護師という夢を与えてくれた人。

彼女は、出会えて良かったと心から思える友人で、今も変わらず大好き。手放したからといって愛情は何も変わらない。ただ、私が彼女への執着を手放し自由に身軽になった。そして、これからの自分の人生を、自分の為に生きる、と決めたということ。

今では、ふと彼女を思い出したとき、私は笑顔で心の中の彼女に「愛してるよ」とつぶやく。そしたら笑顔の彼女がさらに笑ってまたどこかへ行く。今日も私も彼女も幸せでありますよーに。

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