インプットとアウトプット

 「インプット」と「アウトプット」という言葉がある。元々はビジネス用語らしいのだが、ちょっとカッコいい響きだ。私自身も調子に乗って頻繁に使う言葉だ。

インプット【input】の主な意味

入力、インプット、入力(信号)、入力操作、(資金などの)投入(量)


アウトプット【output】の主な意味

産出、生産高、生産品、(文学などの)収穫、作品数、出力、アウトプット、出力(信号)、出力操作

 大体「入力」と「出力」という意味で、この記事では媒体を自分自身の脳として、入力したり出力したりするものは、知識や思考、技術とする。

 私は「入力」と「出力」のバランス、その「手段」「質」について考えることが多い。

 まずバランスについて、「入力」と「出力」はバランスの良さが大事だとよく聞く。バランスが良いに越したことはないけれど、結構その状態を維持するのは難しいと感じる。

 インプット>アウトプットの人は、人の話を聞いたり本を読んだり動画や映画を観たりして、そこで終わってしまう。満たされてしまう。そして達成感を感じてしまい、またインプットを繰り返す。

 逆にインプット<アウトプットの人は、自分の意見や考え、作品などをガンガン表現して、そこで終わってしまう。これもまた満たされてしまう。そしてこれも表現したことに達成感を感じてしまい、またアウトプットを繰り返す。

 このバランスは、性格や環境などで人によって違うし、そもそもこのバランスが上手くとれているなと思う人は、あまりいない。上から目線でこんなことを語っているが、私もそこまでとれていないと自覚している。ちなみに実感としてはインプット:アウトプット=7:3ほど。もう少しアウトプットを上手くしたい。

 次に「手段」について。インプットとアウトプットの「手段」で思いつくのは、「音声」「文字」「絵」「映像」「写真」などが挙げられるが、もっとたくさんある気がする。

 同じ意味の内容でも、この「手段」が変わると「量」や「質」も変わると思う。例えば、この記事の「手段」は「文字」だが、「音声」になるともっと話し言葉に近くなるし言いたいことも整理できてなくて「〜っていう感じ」という語彙数が少なそうな表現を用いてしまいそうだ。でも、「音声」だと少々「量」が多くなっても聞くことは苦にはなりにくいだろう。同じ「量」を文字で読もう、書こうと思うと大変だろう。

 この「手段」のバランスも大事なのだ。私はなるべく「文字」と「音声(人や自分の話)」をバランス良く取り入れようとは意識している。

 私は生まれつき耳が聞こえないので、幼少時に意図的な言語教育を受けて日本語を獲得してきた。その時に親が度々意識していたことは、「本(文章)を読ませて、人と関わらせて、読み書き言葉と話し聞き言葉のバランスをとること」だったそうだ。

 時々、聴覚障害(教育)界隈の人から「どうやったらそんなに言葉を獲得できるんですか。やっぱり読書ですかね??」といった旨のことを言われるのだが、個人的には読書ありきの教育ではバランスが悪くなると思っている。だからいつも「読書をしてインプットしたことを、人との会話に活かし、人との会話で得たことを読書で整理する、その繰り返しなんじゃないか。」と言うようにしている。

 聴覚障害の話に逸れてしまったが、これは聴覚障害に拘らない話ではあると思う。確かに聴覚障害があるとその傾向は強くなる。インプットの方法が限られてくるから。

 それから、最近ここ数年はYouTubeやTikTokなどの動画コンテンツが普及していて、情報収集や表現の手段になっている。インプットする時は、ボタンをクリックすれば動画が自動的に流れてきて、何もしなくても見聞きできるのだ。聞こえる人なら文字を読まなくてもいい。これは楽だけど、だんだん受動的になってきて最終的には自分でインプット→整理しなくなってしまう。動画編集をしてアウトプットしている側が頑張っているだけになるのだ。動画ではなく文字や絵などの静止しているものならば、自らの手で情報収集や表現をするしかなくなるので、能動的になるんじゃないか。

 動画コンテンツを批判しているように書いてしまっているが、動画コンテンツも手段の一つにすぎないのだ。動画だけではなく、他の「手段」も並行して用いるようにしたい。

 「インプット」と「アウトプット」はそのバランスを取りながら、様々な手段を駆使すると、多角的に物事を捉えて質の高いフィードバックをすることができて、自分の成長にも繋がる。この姿勢を大事にしながら、「インプット」と「アウトプット」を実行していきたいと思うのであった。

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