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いつの間にか引かれたボーダーライン|映画『ジョーカー』『パラサイト』

この2作についてどこかで書いておきたいと思ってたのに、書き上げるまでに少し時間がかかってしまった。

ジョーカーが「君にはわからない」と言ったもの。ポン・ジュノ監督が描いたパラサイト。これらに描かれた痛烈な隔たり。この2作が同じ年に公開されたことは果たして偶然なのか。時代を反映する問題作であったと同時に、世界中の多くの人の気持ちを救ったエンターテイメントのチカラ。

「ジョーカー」は公開されてすぐ、「パラサイト」は先行上映された2019年の大晦日に、どちらも劇場に観に行った。見終わったあと立ち上がれないような作品に、こんなにも立て続けに出会うとは思っていなかったし、2つの作品を映画館で観たとき私は「あぁ世の中はこんなところまで来てしまったんだ」という事実に呆然とした。


『ジョーカー』
(監督:トッド・フィリップス、主演:ホアキン・フェニックス /2019年)

『パラサイト』
(監督:ポン・ジュノ、主演:ソン・ガンホ/2019年)

社会には国境じゃないボーダーラインが引かれていて、もう取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。超格差社会の一番の問題を、奇しくもこの2作は同じように指摘している。


ねぇ君、僕の足踏んでるよ

弱い者はずっと叩かれる世の中だ。

それは今に始まったことではないけれど、世界はいま大きく揺れていてジョーカーが多くの観客の心を捉えたのは必然のようにも感じる。緊張すると笑ってしまう病気。そんな病気にかかってなんかいなくても、社会は手に負えないほどゆがんでみえて、理不尽さが蔓延している。

アーサーは市のソーシャルワーカーとの面談を受けた時「狂ってるのは僕か?それとも世間?」と言った。そのシーンが頭をループして離れない。


パラサイトのスイッチは、匂いだった。

冒頭から地下に住む家族の家は、室内で靴下が干され、かろうじて届くWi-Fiはトイレの上だけ。街の清掃で家の中は真っ白。その暮らし自体が彼らにとって不幸なものではなかった。ただ父の引き金を引いたのは、裕福な家主の、あの仕草だった。

格差はいつのまにかラインを引いて高いところから笑っている。ラインを引いたのは強い者たちなのに、その線を飛び越えて弱い者の足を踏む。


裕福なものが貧しさから搾取しているもの

裕福な家庭に貧しいものが住み着く寄生虫。しかし映画をよく見ていると、裕福なものは貧しいものから様々なものをを搾取している。車も自分では運転しないし、家事だって家政婦に任せている。

ギテク一家はみな優秀だった。貧しさを隠せば、優秀な家庭教師として迎え入れられていた。しかし社会は優秀な能力だけではあがっていけない大きな壁がある。彼らの能力は社会から搾取され、高いところから低いところへ流されていく。あの大雨と同じように。


ずっと抱きしめられることはなかった。自分の病気は信じていた母親が原因だと知った。憧れていたあの人は僕をみんなの前で馬鹿にして夢を踏みつけていった。自分の番組のために、露骨にアーサーを笑いの種にしようとした。アーサーはというと、叩かれてばかりの世の中で笑うチカラも搾取されてしまった。

アーサーの境遇を追体験しながら、夢も仕事も家族も自尊心さえも奪われていくのだ。一体何を信じればいいというのだろう。


君が住むところと僕の住むところ。

ゴッサムの街はストライキでゴミの収集を止めていて歩道にはゴミ袋があふれかえっている。街の怒りと不満は高まり、ピエロの顔をしたデモが増えている。貧富の差は広がるばかりだ。手錠をかけられジョークを思いついたアーサーは「理解できないさ」と笑う。


豪邸はいつも高い所にあって、ギテク一家の家は地上ですらない半地下だった。長い長い階段を昇って、それでもまだ坂道を上る。同じ街に超格差がありギテク一家が大雨で家に住めなくなった頃、裕福な家庭では太陽が差し込みパーティを開く。同じ災害を受けたはずが、まるで違う1日を過ごしている。


この二つの作品が素晴らしい点は、言葉にならない社会の構造に対する憤りや人の無情さをエンターテイメントとして昇華している点だ。どんなに腹立たしいことがあっても人は殺してはいけない。現実では殺したりしてはいけない。でもだから映画があって、この映画を通じて世の中のゆがみが少し矯正されたらと願うばかりだ。

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