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短編小説|カムパネルラの手紙

 目が覚めると、部屋の灯りはついたままだった。いつのまにか眠りに落ちていたらしい。まるで何十年も何百年も眠っていたみたいに体が重い。リビングの床に転がっていたせいで背中は痛く、寒い。ずいぶん遠くまで歩いた後のような、空腹と気怠さと果てしなさが重なった眩暈。時計の針は午前2時を回ったところだ。

 喉がやけに乾いて、力の入らないまま無理やり体を起こした。不必要に重力を感じながら、よたよたと歩き冷蔵庫を開ける。ひんやりと冷たい空気が肌をなぞるだけで、何も入っていなかった。日頃の自分の無頓着を後悔しながら、仕方なく棚からグラスを取り出し水道の蛇口を捻った。冷たい水が一気に食道を通り全身の細胞が反応する。大きく息をついて、ソファの後ろの窓を開けた。秋の夜空は広く、丑三つ時の暗い闇に無数の小さい星が見える。僕が今見ている星は、100年前の誰かも見上げていただろうか。死んだら人はどうなるというのか。


 昨晩、母が息を引き取った。あと8日で42歳を迎えるはずだった。23歳の頃に僕を産んで、僕が小学校に入って間もなく父が家を空けてからずっと二人だけで生きてきた。僕にとって唯一と言える家族が母だった。半年前に入院が急遽決まってからは、あっという間だった。母の最期を看取ってから、この家にどう帰ってきたのか覚えていない。母の手の温もりは、まだ僕の手の中にあるというのに。

 すっかり眠れなくなってしまって、外の風に当たることにした。吐く息は白い。秋が終わりそうな冷えた空気が、肉体を硬らせた。生きているのだな、と思った。ゴトゴトゴトゴトと遠くの方で電車が走る音がした。「こんな時間に?」最終電車はとうに終わったはずで、空耳だったのか。辺りを見回しても静まり返った線路が少し先に見えるだけで、こんな深夜に電車など走っているはずもない。見上げると、何かが空に登っていくような気がした。

 30分ほど歩いただろうか。ふと気がつくと、歩き慣れたはずの場所に見たことのない小径があった。身の置き場のない僕はまだこのまま家に帰る気にもなれなかったので、中に入って行くことにした。5分ほど歩いた突き当たり、生い茂る緑の中に木造の扉があるのに気づいた。まるで誰も歓迎していないその風情が今の僕ととても似ていた。扉には小さな鐘がぶら下がり、オレンジ色の光が溢れる。

 「こんなところに喫茶店なんてあったっけ。」
入り口にはCampanellaと書いてあった。遠い記憶の奥になんだか馴染みのある名前。Campanellaは、イタリアの言葉だったか。中に入るのに数秒躊躇ったけれど、誰かから呼ばれているような気がして、少し錆びた金色のドアノブに手を掛ける。カランコロンと小さな鐘が音を立てて、扉を開くと白いカップを布巾で拭いている初老の人と目が合った。
 「いらっしゃいませ」と小さく口を動かしながらその男は僕に向かって会釈をする。その仕草は、まるで僕がここに来ることを知っていたような雰囲気だった。僕もつられて会釈をした時、バタン!と扉が閉まって押されるように店の中に入った。テーブルに飾られた紫のりんどうが、少し自信なさげにふっくらと花びらをつけていた。「お好きな席へ」と初老のマスター小さく微笑む。肉体的なピークは過ぎ、余白のある仕草に妙な懐かしさがあった。促されるままに、僕はカウンターから少し離れた窓際の席を選んだ。

 その喫茶店は一見どこにでもある様子を装っているが、どこか普通のそれと違っていた。その違和感の正体が一体何なのか、その時の僕にはまだ説明ができなかった。腰をかけるとテーブルには引き出しがあった。違和感の正体が見つかることを期待しながら、引き出しを引いた。中にノートの端をちぎったような紙切れが折りたたまていた。秘密を探るようにその緑色の小さな手紙を手に取った時、後ろから話しかけらて慌てて引き出しを閉めた。僕は手紙をそっとパーカーのポケットに隠しながら、顔を上げた。
「えっと、、、」
「決まりましたか?」
「なんでしたっけ」
「ご注文」
「あ、すみません、まだ、、、」
「決まったら声をかけてください」
「はい、ありがとうございます」
 咄嗟にくすねてしまったその手紙に後ろ髪をひかれながらも、左手に立てかけられたメニューを手に取るとぎゅるるるるとお腹の虫が鳴った。そういえば昨日の昼から何も食べていなかった。どうりで力が出ないはずだ。メニューを開くどのページも白紙だった。何も書かれていない冊子をペラペラとめくると次第に文字が浮き上がっていた。

 牛乳(角砂糖入り)、コーヒー、カフェオレ、お酒もあった。いつくかの食事のメニューが並んだ最後のページにオムライスとあった。それは母の得意料理だ。
 「すみません、オムライスひとつ」恐る恐る注文をすると、マスターは頷いて、卵に手をやった。割った殻からとろんと流れ出た卵をくるくると軽快に混ぜながら「ここまでは歩いて来られたんですか?」と僕に聞いた。
 「今日は夜空が綺麗だったでしょう。白い銀河はそこにある望遠鏡で覗くと、ずっと近くに感じられますよ」と、さっきまでなかったはずの天体望遠鏡を指差した。「よかったら」と言って、次は玉ねぎを取り出して細かく刻む。トントントンとリズムに乗ってまな板を鳴らす。


 僕はマスターに言われるがままに、天体望遠鏡を覗き込んでみた。レンズを覗くと、銀河には真ん中に大きな天の川が南から北へ流れ、小さな白い星たちが方々で弾け、まるで星のお祭りをしているみたいだった。その美しさに気を取られていた矢先、「銀河ステーション、銀河ステーション」と人間の声とはまるで違う、鳥の声とも虫の声とも判別のつかない、でも確かに電車の訪れを知らせるアナウンスが聞こえてきた。驚いているのも束の間、その知らせに応えるように汽車が天の川を上り、前方の窓には背の高い2人の少年と、後部座席には母の後ろ姿によく似た女性が座っていた。思わず「母さん」と口にすると、その後ろ姿はこちらを振り返りニコニコと微笑んだ。レンズの中の不思議な光景に目を奪われながら、銀河にいる母に想いを馳せた。

 「お待たせしました」と呼ぶ声がして我に返る。テーブルの上に綺麗な黄色のオムライス。それは母が作ったそれとそっくりだった。僕は目を丸くしてマスターの顔を見た。「何か見えましたか?」と僕に笑いかけた。僕はまだ混乱しながらも、とりあえず席に着いて大きく深呼吸をした。「いただきます」と手を合わせて、真ん中の赤いケチャップをスプーンで掬う。口に入れた途端、突然涙が溢れ出して、止められなくなってしまった。泣きながら、母が作るその味を掻き込むようにして食べた。


 母は助産師をしていた。仕事は忙しく朝も夜ない仕事だった。それでもいつも身なりをきれいにしていた。命を取り出す仕事が大好きだと言って自分の仕事を慈しむように笑った。弱音など聞いたことがない。お金はなかったが豊かさのある人だった。夜仕事で帰れない日は決まってラップをかけたオムライスがテーブルに置いてあった。お皿の隣には、必ず小さいメモで「牛乳は冷蔵庫に入っています。しっかり食べること」と優しくて控えめな文字の書き置きがあった。何も喉を通らないようなどん底の夜でもご飯をちゃんと食べるということは僕と母の小さい頃からの約束だった。この約束は、母がいなくなったこれから先も守らねばならない。僕はオムライスを一つ残らず食べ終え「おいしかったです」と伝えて店を出た。

       ***


 しばらく経って、一人の女性が2歳ぐらいの女の子を連れて僕の家を訪れてきた。2年前のちょうど今と同じ季節に、うちに来たことのある女性で見覚えがあった。かおりさんといった。娘さんは実ちゃんというらしい。かおりさんは僕の母に本当に良くしてもらったと何度も何度もお礼を言ってくれた。「こちらこそ、ありがとうございます」と彼女が頭を下げるたびに僕も頭を下げた。母の代わりに「ありがとう」を受け取ると、僕の中にいる母の存在が少しだけ大きくなるような気がした。そしてかおりさんは、母とよくしていた話を僕にこっそり教えてくれた。

「私はもうダメだってなったとき、お母さんの顔が見たくなって連絡をとらせてもらっていたんです。娘が生まれる前からずっと助けてもらっていたから。いつも私が弱音を吐くと、あるものを数えましょうねって言ってくれるんです。ないものを数えると悲しい気持ちになるけれど、あるものを数えると幸せが自分の周りに隠れていることに気がつけるでしょうって。そう言って笑って」と僕の手を握ってくれた。実ちゃんは、好奇心の赴くままに目につくものを一つ一つ触っては元に戻す、を繰り返していた。

 ひとりになって、母を見送ってから続いた不思議な出来事を思い返していた。あの銀河鉄道の夜、Campanellaでみた望遠鏡の向こうに確かに母の姿があった。母はいつもと同じ仕草で僕に笑いかけてくれていた。マスターが作ってくれたオムライス。かおりさんから聞く母の姿は僕が知らない顔だったけれど、誇らしく信頼できるものだった。何があってもご飯だけはしっかり食べるようにと約束したことを思い出して、冷蔵庫をあけた。割った殻からとろんと流れ出た卵。母がいなくなった家は妙に広く感じたけれど、至る所に母との思い出があった。母が一つ一つ集めたキッチン用具はどれも使いやすく手にとても馴染んだ。母が買い揃えた食器は高価ではないけれど可愛らしさと彩りがあった。小さい頃から器用だねとよく褒められる二つの手のひらを見つめた。“あるものを数える“とても母らしい考え方だと笑った。

 春になってCampanellaを探してみたけれど、あれ以来見つからなかった。あの夜の出来事は夢だったのか。ふと着ていたパーカーのポケットに手をやると何かが手に当たる。季節が二つ過ぎて、すっかり忘れていた畳まれたノートをちぎった緑色の手紙。あの日咄嗟にポケットに隠したことを思い出した。僕は少し緊張しながら折り畳まれた小さな紙を開いた。

「ねぇ、ほんとうのしあわせはみつかった?」手紙からは苹果の匂いがした。

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