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短編小説|バターの匂い

 目が覚めるといい匂いがして、隣の部屋からガタゴトと音がした。口の中は昨日飲んだワインの味が残って、渚がいた右側だけ妙に痺れていたから、いつもより大きめに伸びをしてぼんやりとした頭を掻いた。シングルベッドの上にまるまった布団を畳んで、寝違えてしまった首を回しながら音の鳴る方へ向かう。

「おはよう、朝ごはん食べるよね。二日酔いには、お味噌汁がいいからね」
 渚のいつもの癖だ。お酒の強い彼女は、二日酔い対策は万全で、普段から体にいいものばかり勧めてくる。お酒を飲む前はウコンを飲むといいんだよと言って人数分のサプリを配ったり、旬だからといって筍の天ぷらを頼んだりする。体にいいからね、とニコッと笑う彼女に「ほんとに?」と突っ込むのがわたしたちのパターンだ。手際よく作ってくれた朝ごはんを前に、そんな彼女の癖を思い出してわたしは少しだけ笑ってしまった。

「なんか実家みたいだね」
「そう?」
 豆腐とわかめの入った味噌汁は、遅く起きたわたしの胃まで2秒ぐらいで届いて体中に広がっていく。味噌汁はいつ食べても美味しいけど、確かに二日酔いにいいと言われるとそうなんだろうなと信じてしまう。脳よりも体がこれだと言っているみたいだ。
「・・・何これ美味しい。染みる」
「でしょ。バターとちょっとだけオリーブオイルも入ってるんだよ」
「へぇ。小豆がきて何年ぐらいになるんだっけ」
 食事のいい匂いにつられた小豆は人間みたいな仕草で一緒に食卓を囲む。小豆は渚と暮らしている猫の名前。
「一昨年の秋の雨の日に拾ってそれからだから、もうすぐ2年になるかな」
「そっか、早いね」
「なんか人間みたいな顔してるでしょ」
「ほんとだ、なんか一丁前」


 飲み過ぎた頭が少しずつ解けていく。そういえば昨日は不思議な夜だった。カウンター席が5つとテーブル席が2つしかない小さな韓国料理屋さんで、一つ年下のハルと一緒に食事をすることになった。ハルと渚は一人でもこの店に来る常連で、歳も近かったせいか当然のように意気投合したらしい。

「やっと就活も終わったから、今のうちに海外にでも行っておこうと思って」
 ハルが手に持っていたのは免許証のコピーと戸籍抄本の写しだった。今日取りに行ったらしいそれを大切そうに鞄にしまう。
「なに。パスポート持ってなかったんだ、意外」
「そうなんだよね。」
「行き先はもう決めたの?」
「まだ迷ってるけど、ニュージーランドかロンドンかな」
 そういうハルと目が合った。わたしは思わず笑い返す。大して自己紹介もせずに会話が始まったけど、ハルは昔からの友達みたいな雰囲気があった。
「ロンドンいいところだよね。わたしも好き」
 会話に混じるわたしを見て、渚はとても幸せそうに笑う。それから3人でこれまでに行った旅先の話や、これからどんなところに行ってみたいかを取り留めなく話した。渚は友だちを作るのがうまくて、それ以上に友だちと友だちを引き合わせるのが天才的にうまかった。人見知りをするわたしには渚のそういうところはとても不思議で捉え所がなかった。大学でもいつも輪の真ん中にいて、少し抜けたところを突っ込まれながら、目に見えて愛されていた。思い返せば、人との距離の取り方を教えてくれたのは母親ではなく彼女だったような気がする。いつだって自分を置いて相手のことを想い、相手のために涙を流す人。



 彼女が「余命宣告されたんだよね」と私に言ったのはそれから3年後の秋だった。この夏に25歳になったばかりの彼女に、どう考えても不釣り合いな言葉のように思えた。渚は2ヶ月前に調子が良くなくて病院に行って入院をしていたこと、実は思いがけない病気が見つかったこと、とても自然に担当医に余命宣告をされたことを説明してくれた。
 彼女の言葉が目の前を通り過ぎていく。まるで別世界の話のようで、説明を聞いていた時、自分がどんな反応をしていたか覚えていない。大切な人を前にして、こんなにも自分が何もできないことを思い知る。人は現実を受け止められない時、言葉通り言葉を失うんだなと身をもって知った。
 いつも体にいいものばかり探してみんなに勧めるような彼女がなぜ、25歳の若さで余命宣告を受けなければいけないのか。状況が掴めないわたしの頭は渚の言葉を聞き漏らさないようにするだけで精一杯だった。


 玄関のドアを開けると珍しく小豆が足元に甘えてきた。
「ただいま。どうした?遅くなってごめん・・」
 パソコンの入った重たい黒のトリーバーチを玄関マットに置いて小豆を胸の中に抱いた。小豆のバターみたいな匂いと少しだけ飲みすぎたワインの匂いが混ざる。ブラウス越しに伝わってくるぬるい体温。昨日洗ったバスタオルと脱ぎ捨てのTシャツが山積みになったチャコールグレーのソファに小豆を降ろすと、虎模様の綺麗な毛並みのお腹をゴロンと見せてきた。小豆の甘え方は渚が友だちを作るときの距離感ととても似ていてはっとする。
 膝の少し上まであるTシャツに着替えた後、小さめの片手鍋をとって、2日前に作っておいた出汁を注ぐ。豆腐とわかめとバターが入った味噌汁は、口に含むとすぐに胃まで直行した。
 匂いにつられた小豆と私は、温め合うようにして食卓を囲む。人間みたいだな、と小豆の頭を撫でた。

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