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楽に泳ぐとスイスイ進む

泳ぐのが好きだ。
小さい頃、よく海に行く家族だったので、一日中ひたすら泳いでた。
夏休み、鹿児島のど田舎の祖母宅に滞在した時も、歩いて3分の海に毎日潜って、飽きたら釣りをして過ごしていた。
川は水が冷たくて少し苦手だけど、それでも清流は身体が引き締まるようで気持ちがいい。
プールもいい。
今は時間制のプールが多いけれど、わたしが子どもだった昭和後期の市民プールは一日券が小学生100円くらいで、朝から夕方まで遊び尽くせた。
わたしも一緒に行った友だち達も、飽きたし帰ろうという子はいなかった。

スイミングは2年程習っていた気がする。
クロールと背泳ぎだけ、ちょっと泳げるようになった。
けれど高校の水泳の授業ではタイムが遅すぎて、夏休みに補習になった。「あれ?わたし、こんなに泳ぐのが好きなのに。水泳が苦手なの、なんでだろう?変だなぁ」
と、ずーっと思っていた。

それでも、大人になってからも泳ぐのは好きだ。
海も川もアトラクション系プールも、国内も海外もシュノーケル一つでの素潜りも楽しい。
泳いでなくても水の中にいるだけでしあわせ。

時おり、ジム系のプールにも行く。
でも、コースの中で次の人のスピードを気づかいながら頑張って泳ぐのは、まったくもって楽しくなくて。
「水の中にいたい」が最優先なので、ずっと水中ウォーキングコースにいたりしていた。

ある日、子ども用の自由遊泳ゾーンに誰もいなくなったので、そこでプカプカと浮いたり、気ままに潜水したりしてみた。
快適だった。
「そうだった。小さい頃はこうやってプールで遊んでいたんだ」
習った通りのクロールを正確に早く実行するために泳ぐんじゃなくて、水の中にいたくて、潜りたくて、浮きたくて、漂ったりして。ただ遊びたいだけ。

その日のプールは空いていて、人がいない普通のコースもあった。
「今なら、適当にゆったりゆったり泳いでも、誰にも迷惑かからない」
そう思って、コースで勝手気ままに泳いだ。
平泳ぎでもクロールでもない、いわゆる潜水。
最初に壁を蹴って潜って。推進力が無くなったら、手で平泳ぎのようにかいで息継ぎはしない。それで行けるとこまで行き、止まりそうになったらまた手でかいだり、足を軽くバタつかせたり平泳ぎのようにかいだりする。
適当。
息が苦しくなったら、平泳ぎの息継ぎをする……って、あれ?全然息が苦しくならないぞ。
気がつけば25mを息継ぎなしで泳いでいた。
わたしは水泳強者じゃ全然なくて。
25mごとに休憩しないと泳げない。
もちろん息継ぎもたくさんする。
遠泳とか出来る人の意味がわからなかった。
25m泳ぎ終わろうとする頃には全身に変なかゆみみたいなゾワゾワ感がわいて、限界を訴えるような感じ。それはスイミングに行っていた小学生の頃から変わらなかった。
海や川で好きに泳いでるときにはそうならない。
その変な感覚が来なかった。
25m終わっても、まだまだ泳げそうだった。

自分のペースで自分の泳ぎ方で、後ろから追ってくる人のことも気にせず、のびのびと好きなように泳げば、こんなにも楽なのか……。
プールで泳ぐとき、わたしはいつも次の人が来るから、体育授業だから「早く泳がなきゃ!」と必死だったな。力んでたから呼吸も浅いし、筋肉も固くなって悲鳴を上げてたんだな。
今、脱力してたからこんなに楽に25m泳げたんだ。
と気づいた。

わたしは水泳選手になりたいわけじゃない。
早く泳ぎたいとも思っていない。
ただ、水と遊んでいたいだけ。
海や川の水の中の様子を、潜ったり流れと遊びながら見ていたいだけ。

スイミングスクールや体育授業によって「泳ぐときは必死で頑張る」という考えがインストールされていたらしい。
もちろん、スイミングスクールで学んだ水泳技術や水泳選手のような泳ぎ方にはちゃんと構築された理論があって、最大公約数としてその動きをきちんとできれば、脱力して楽にスイスイと何キロも泳げるのだ。そんな人はたくさんいる。いや、大多数だろう。
ちょっと、わたしの趣旨と泳ぎ方とは合わなかっただけで。

今はいろんな人がいろんな意見を言えるようになったから、「泳げるのも大切だけど、まずは水に浮ける訓練からした方がいい。いざとなった時にまず溺れずにすむように」なんてことも浸透しつつある。
わたしの学生時代は何事においても正解が一本道しか提示されてないことが多く、素直にそれを受け取ってしまうけれど、自分の本心ではそうしたくない場合とのギャップがしんどかったし、その本心にさえ気づけないことも多かった。
今どきの言葉でいうと、そういった「呪い」がどんどん解けていく時代なのかもしれないし、個人が成長し大人になって若いときよりは広い目で世界や自分を見れるようになって解けていってるのもあるだろう。

楽になっていい。
自由に泳ぐのは楽だ。
楽だと、いつまでも泳いでいられる。
長く長く楽しく遊ぶ時間を過ごしていられる。

最初から自由で楽だったら良かったのかもしれない。
けれどわたしの性質なら、いったん呪いにかかってそれを解除する、開放感を味わうのが楽しいのだろうと思う。
昔々、結構大変な時期があった。
その時にはまっていたのがベートーヴェンの第九だった。
「絶望を突き抜け 歓喜にいたれ」
その言葉を見た時、あぁ、わざわざそのとてつもない歓喜を味わいたいがために、自分の人生には度重なる絶望があったのだなぁと。
ご飯を美味しく食べるため、わざわざ極限の空腹まで我慢するみたいな。
まるでマゾのような、自分の思い通りの人生設計を笑ったのだった。

泳ぐことの気づきもしかり。
気づくことそのものが、ギフトであり歓喜なのだ。
その上、泳ぐの楽しい!まで付随するなんて。
うまいことできてるなぁと思う、今日このごろです。

読んでいただきありがとうございます。
祝福アレ♪

P.S.
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明日への活力です😊

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