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#26 役割を果たすことの代償

大概の人は物心ついてから、何らかの役割を負って生きているのではないだろうか。

子供の頃は誰かの子として。学校の中でもいつの間にか自分のキャラや立ち位置が出来、そのように演じる部分もあると思う。

社会に出れば、会社や組織内での役割があり、個人事業や起業をしていても、その事業のトップとして、または医者、弁護士、カウンセラー、セラピスト、アーティストといった肩書きや役割がついてまわる。

演じているつもりはなくとも、ある程度外側から期待される(と感じている)言動や振る舞いがあり、いつの間にかそのように振る舞うことが自然になってしまってないだろうか?

子としての役割では、無意識に親が求める在り方をしようとしたり(子供が親に喜んで欲しい、認めて欲しいと思うのは自然な欲求で、そのために本当はしたくないこともしてしまったりする)、仲間内でも周りが設定したキャラを演じてしまったりする。おとなしい人、真面目、ひょうきんもの、リーダー格などなど。

でも本来私たちはとても多様な性質をもっていて、その「キャラ」を超えた欲求や衝動もあるはずである。

でもそのキャラ外の反応をすると、「らしくない」と言われたり、「どうしたの?」と言われたりするので、それじゃ受け入れてもらえないのかと無意識に感じ、受け入れてもらうためにキャラを演じ続けることになる。

大人になり、進路を考える時、安定や安心のために職業を選ぶこともあれば、自己実現のために何かをすることもあるだろう。

アーティストのような一見自分のしたい事を追求するような職業でさえ、その作品が評価に晒された時、どうしても外野を意識せざるを得なくなるのではないだろうか。

パートナーシップにしても、誰かを好きになり、その相手に好きになって欲しいと思った瞬間から、相手が望むだろう自分になろうとし始める。ありのままの自分で愛される自信を持っていれば別だけれど、その自信がある人はどれだけいるだろうか。

ありのままの自分を愛せない自分は、やはりパートナーシップにおいても、自分ではない役割を演じようとする。

そしてパートナーを得て、子供が出来たとすると、今度は親の役割を果たそうとする。

いい親になろうと思う親ほど、自然の本能から離れ、外側の情報から「正しい」子育てをしようとする。そして、自分とは全く別の生き物である子供の感情や行動に葛藤する。

このように生涯を通じて、何らかの役割を果たす、演じることで、私たちは自分自身を失っていく。

根本にはありのままの自分自身ではいけないという想いもあるかもしれない。

そもそもありのままの本当の自分を感じたことがないのかもしれない。

本当は自分は何者なのか。

今現在まとっている役割を全部取り去り、役割上負っていた仕事や義務を全部取り去ったとき、何が残るだろうか?

その残ったものの中に、これが私!と言えるものはあるだろうか?

他者からの評価がなくても、それが収入につながらなくても、それが愛や関心につながらなくても、それでもやり続けたいことを、今やっているだろうか?

役割を果たすということは、社会や集団の中での役割であり、それをしている限り、1人になることはない。

もしかすると、人が自分自身の時間、自由、欲求や衝動、感情を犠牲にしてまで役割を果たそうとするのは、孤独を避けたいからなのかもしれない。

でも孤独はそれほど怖いものだろうか?

人間は社会的な生き物なので、一人身一つでは生き残れないという不安が刷り込まれている。

実際大自然の中にたった一人放り出されたら数日で死ぬかもしれない。

でも、本当の自分自身とズレた役割を生きることは、生きていると言えるのだろうか?こんな事を考えられるのは、衣食住満たされている故の贅沢かもしれない。

でも、私は全ての役割を取り去ったとき、何も残らない人生は嫌だ。何のために生きてきたのかと、死に際に後悔すると思う。

だから、一旦役割を捨て、改めて自分に問いかけてみようと思う。

私は本当は何者なのか。

2023/01/30 ジャーナル

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