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2022.4シャーペンの芯の減りは早い

最近張キャンバスにシャーペンでガリガリとドローイングしている。粗い目に硬い芯が当たる抵抗感、粉末になって現れる炭素、擦れ。
簡単に擦れやがる、うざい。いや心地よい、か。
勝手に自分の中で当たり前になっている概念。雑念を払拭するようにガリガリと、もはや禅であるとすら思う。

とてもくだらないが輪郭線を描くのは間違いだと思っていた時期がある。絵を描き始めた7年程前のことだ。
輪郭を描かなかった頃の私の絵に黒はほぼ存在しない。
ところが線を自分の中で許可した途端、輪郭とする線は自ずと黒もしくは低明度の青や紫になった。
輪郭線は存在しないから描かない、線を描くなら黒だ、など、自分の知識や経験から疑わず決めている。
それを「何故、黒で線を描くのか」と問われるまで無自覚であった。

私は絵を習ったことがない。
習うとは、何をどこで誰からどのくらい習うことを「習う」と定義するのか分からないが、いうならば予備校に通ったことがないということだ。
デッサンはセンター試験後から二次試験までのおよそ1ヶ月間しか描いていない。着彩や構想についてはやっていない。
予備校に少なくとも1年以上通い、芸大、美大へ進学し卒業する人々、絵の基礎は予備校で習い、大学で哲学を深める。それがスタンダードとして一つ浸透している中で、
習っていないことは私の中で引け目のように認識してきた。
なので、「どこかで学ばれたのですか」と聞かれると「独学です」としか答えられない。
名前を聞かれるようなものであるが、このやり取りが苦痛だ。
独学で描いた絵に価値があるのかという視線を感じる。勝手に感じているだけであるし、絵の説得力に欠けるだけであり、全員に対して思う訳では無い。ただそう考える人もいることは事実だろう。
就職する時に出身校を見られるのと同じだ。
判断基準をどこに向けるかは見る目によるが、正しい判断は特にどこにも無い。

私は美術教育の出身である。
美術教育というのは、あくまで教育学部であり教育する立場で学んだことは美術を学んだと言えるのだろうか。

2年程前に駆け込んだ精神科で、絵を独学でやっているという話しになる。
医師から「絵は独学では描けない」と言われ、誰に何に対してなのか「やめちまえ」と思ってしまった。
そこには「辛い振りするのやめちまえ」も含んでいたと思う。
辛さ、しんどさ、虚しさ、怒り、不安、焦燥、を味わい体験し、楽しんでいるだろう、可哀想な自分を装って保護してるだろう、やめろ。
習っていなければ描く資格は無いのだろうか、習っていないなら習いに行けと言うのか、どこへ。やめてしまえ。
習うと学ぶはイコールでは無いとも思う。
(と書きながら、いや、単純に私は授業をサボりまくっていただけに思えてきた。
過去は都合よく脳内で書き換えられるからもう分からない。)

そもそもそれらの観点が重要でない。
絵を描いている人の中に習ったといえる人は実際少ない。描いている人間の方が圧倒的に多いからだ。
けれどだからこそ何をやっているのか自分で把握している必要がある。
今のところ言語化できない。

私はほとんど書を書く感覚で描いている。絵と書に対する姿勢の差があまりない。
私は書の派生をやっている、美術教育の派生をやっていると考えても良いだろうか。
教育というのは私の中で知識技能を教えるよりも、肌感覚で伝えること見守ることであり、平均を保つ協調でなく、個々の存在、能力の尊重である。例えばひとつの授業で皆と同じ作業に取り組まない、取り組めなくても同じ空間に存在しているだけで作用し合っている。
それをこの作業をしなさいと強制することはできない。決められた作業をしなくとも学びはあるからだ。
つまりかなり幅を持って「伝える」ということをやりたい。というかできるなら嬉しい。

美術の文脈について答えられない時点で私は美術をやっているとは言えないかもしれない。
絵である必要性はないかもしれない。
けれども今必然として、それをすることを欲し、できているということ、それは生きるという以外の何ものでも無い。


ガリガリという手に伝わる抵抗感に覚えがある。
母方の祖父母が豆腐屋を営んでおり、幼少期から遊びに行っては工場の地面にチョークで絵を描いていた。
アスファルトだろうか、面の滑らかなところと砂利が剥き出しになったところで描き心地が異なる。
絵を描くこともそうであるが、地面の質感やチョークの削れゆく様を楽しんでいた。
そしてずっとシャーペンで絵を描いていたことを思い出す。
私は何かを思い出そうとしている。
これは自然な流れなのだ。

原点回帰にこそ本質や置き去りの自分、見過ごした何かがある。
大人になるにつれ人々は純度を失っていく。
生まれてくるほとんどの人間に目的はない。
ただ経験をしに来ているからだ。
何をしても何もしなくても生を経験することには変わりない。
ならば幸福度についてだけ考えれば良い。
環境によってあらゆる面に影響を受けるように、感情もまた伝染する。
幸福感をもつ人が増えるほど幸福は広がる。
感情や波動の共鳴に興味がある。
そして同じような波動の人々と繋がり、作ったり考えたりしたい。
9月はそのための実験をする。
少し動きつつある。
絵を描く。少し言葉を書く。

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