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映画レビュー 「君の名前で僕を呼んで」

1983年、イタリア、夏。ほどよい時間的距離が心地よく、そこで繰り広げられる日々があまりにもまぶしい映画だった。すべてのシーンが美しく写真集を眺めているのかもしれないと錯覚するほどだった。

考古学教授の父、翻訳家の母、17歳のエリオは毎年夏になると北イタリアの避暑地にやってくる。この一家の文化的水準はとても高く、イタリア語、フランス語、英語などのさまざまな言葉が飛び交っている。エリオは庭で読書をしたり、カセットテープで音楽を聴いたり、古典音楽を編曲して譜面を起こしたりピアノを弾いたりして過ごしている。

ヴィラは完全に外に開かれている。映画冒頭、エリオの部屋のベッドには同年代の少女マルシアがくつろいでいて、両親が寛大であることも伝わる。助手として大学院生を迎えるのが恒例になっていて、今年はアメリカからやってきたオリヴァーが滞在することになった。

エリオはオリヴァーを一目見た印象として「自信家」だと言っている。彼の「後で(Later.)」という口癖を「失礼だ」「横柄だ」と非難したりもしている。案内役はつねにエリオだが、オリヴァーはエリオに構わず自由に振る舞う。そんなオリヴァーをエリオはいつも目で追いかけている。

二人で過ごす時間を重ねるにつれてオリヴァーへの気持ちを自覚していくエリオ。だが、自分を慕ってくれるマルシアともセックスをするようになる。このあたりのいきさつは、きっといろいろな人が自分の過去の経験を重ね合わせたりするのではないだろうか。本当に好きな人はほかにいるのに、自分の気持ちを誤魔化して違う人を好きになろうとするというような。エリオの場合はなおさら、夏が終わればアメリカに帰ってしまう年上のオリヴァーが相手であるそのことが事態を複雑にしていたのかもしれない。ふられてしまうマルシアの気持ちを思うと彼女への同情もやまない。この映画に登場する人たちは優しい人ばかりだ。嫌な人が出てこないので何度でも観たくなる。

オリヴァーとエリオが通じ合ったあと、オリヴァーがエリオにかける言葉。
Call me by your name, and I'll call you mine.
ダビデの星を首にさげた二人の人間が、お互いを帰る場所であると確信している証拠だろうか。この二人には利己的なところがほとんどないように見えた。それは相手を尊重するというよりは、相手を大切にすることが自分を大切にすることと同義だからかもしれない。

6週間の滞在が終わり、帰国前にローマで数日を過ごすオリヴァーにエリオをついていかせたのは彼の両親だった。オリヴァーと別れたあと母に迎えを求めて電話したエリオ。助手席に座り静かに嗚咽する彼に母は声をかけない。父はエリオに「炎があるなら吹き消すな」と説いた。

冬がきて、エリオの一家はまた北イタリアのヴィラに来ている。そこにかかってきた電話をとると、エリオの耳にオリヴァーの声が飛び込んでくる。婚約の報告と、「何一つ忘れない」の言葉。そこからエリオは暖炉の火を見つめながら音も立てずに泣くのだが、私は彼から目を離すことができなかった。エリオの背後ではハヌカのご馳走の用意が着々とすすめられている。

同性愛は1980年代という時代においてはタブーだったかもしれないが、この映画のなかでは両親の理解があったことであまり問題になっていないと感じた。(最後のオリヴァーの電話では「自分なら矯正施設行きだ」と軽く言及があるものの)エリオの父やオリヴァーの研究領域でもある古代ギリシアでは、バイセクシュアルはごく一般的だったのであり、それはこの一家の寛大さにも影響していそうだと思った。

同性愛を描くことよりも "もう一人の自分" と思える相手との恋を描くことのほうに重きが置かれていると思う。私はそれを見てものすごく心が動かされ、印象に刻み込まれてしまった。派手で劇的な展開よりも、淡々とした時間を映す映画を愛している。

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