見出し画像

大西巨人、オーウェル、宗教的心がまえ、フォースター、立野正裕

「宗教」という言葉を聞いて、わたしは通常「神様」を連想する。つまり、ヤハウェ=ユダヤ教、イエス=キリスト教やムハンマド=イスラームなどの特に一神教を思い浮かべる。
世界三大宗教という言い方があるが、これが示すのはキリスト教、イスラム教、そして仏教。仏教はわたしが想起する宗教のイメージとはちがい、どちらかというと哲学に近い。イスラームは信仰と生活が一体化しているという点が特異であると感じる(現代日本社会を生きている身として)。そうするとやはり、わたしの中での宗教はキリスト教のことだろうと思う。

「宗教」はもちろん西洋から入ってきた言葉の訳語であり、その時期は幕末期であった。今年の大河ドラマ「青天を衝け」で扱われている時代がまさに幕末から近代への突入期を描いているため、これを見ていると今当たり前のように使われている言葉や社会の仕組み、概念などが次々に誕生していく様が見られて興味深い。このような西洋的概念の導入期に入ってきたのが「religion」であり、これに「宗教」が当てられた。

12月4日に行われた立野正裕先生の講演会(最終回)で扱われたメインテーマは、作家大西巨人における「宗教的心がまえ」であった。大西巨人はマルクス主義思想に立って創作活動を行なった。その作品の中で非宗教的な立場における日常的な宗教的心がまえ(日常行住坐臥、というキーワードが特に印象に残っている)の重要性を描き出している。

ジョージ・オーウェルの言葉。

「来世の不存在を承認しつつ、なおいかにして宗教的な心構えを復興するかが、真の問題である」

英語の「religion」はラテン語の「religio」(レリギオ)から派生した言葉であると知った。religioは「再び」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareを合わせた「再び結びつける」という意味を表す。キリスト教以前の古代社会では当然信仰を意味していたわけではなく、行為を表す言葉だった。その行為は「念入りな慎重さ」をともなう。

「耳をこらしてよく聞く」
「バラバラに存在するものを結びつける」

こういった行為。

神社などに足を踏み入れるとき、鳥居の手前で頭を下げる人を見て、この人は神様に思い入れがあるのだろうかとボンヤリ考える自分がいる。神様に敬意を表するも何もわたしには信仰がないからと言い訳をしていた。あれはとても恥ずかしいことだったのだと、立野先生の講演を聞きながら頭を抱えたい気持ちになっていた人はわたしの他にもいただろうか。

講演の中では大西巨人の短編「連絡線」(短編集『五里霧』の中の一編)に描かれる、門司と下関を隔てる関門海峡を連絡する省線連絡船のイメージに焦点が当てられた。わたしは講演の翌日、本棚に1,2巻をさしたままの長編小説『神聖喜劇』(光文社文庫、全五巻)をおもむろに開いた。奥付を見ると2014年3月30日の日付で増刷がかかっている、大西氏が亡くなったことをきっかけに重版をかけたのだろうか。2巻の序盤で読むのを中断したままにしていた。
『神聖喜劇』でも、「『安芸』の彼女」との回想部分で省線連絡線、和布刈神社が登場する。短編の方も読んでみよう。

religioは元々神と人間の関係をさしていたのではなかった。話はE.M.フォースター『ハワーズ・エンド』の エピグラフ「Only connect…」にもおよんだ。東洋と西洋、イスラームとキリスト教。『インドへの道』に卒論、修論、講師になった後、と継続して取り組んだ立野先生から言われると、胸に迫るその迫り方がちがうと感じる。

立野先生は今後も立て続けに本を出していかれるだろう。立野文学と同時代を生きられることに感謝して、これからも喰らいついていきたい。

スキやシェア、フォローが何よりうれしいです