見出し画像

川上未映子 春のこわいもの

春が好きだ。「春のこわいもの」と言われたら一体何かなと思う。3月14日に行われたオンライン刊行記念イベント(詩人の穂村弘さんとの対談)をとても楽しみにしていたのに、仕事やら帰省やらでリアルタイムはおろかアーカイブ配信すら見逃してしまった。チケット買ってたのになあぁ。Amazonの音声配信サービス「オーディブル」のために書き下ろされた作品とのことで、色々と執筆の裏側を聴けたはずだろうと思うと悔しい。


さて「春のこわいもの」は短編集である。長さはまちまち。なかでも私は、いちばん最後に収められている「娘について」が特に印象深かった。

主人公よしえは、見砂(みさご)杏奈と高校時代の同級生で親友だった。母子家庭で育ったよしえは高校卒業後、小説家を志しながらアルバイトで生計を立てていた。裕福な家で育った見砂は私立美大に通い日々を謳歌していた。そんな二人がひょんなことをきっかけに同居生活をすることになるのだが、次第にお互いへの不満がつのり、二年ほどで同居は解消されたのだった。

よしえは過去にベストセラー作品を出していたが、それは一度限りのことだった。コロナウィルスが流行り始め、編集者との打ち合わせもばらしになり、一人で暮らす彼女は自分の存在意義について考え始めていた。そんな折に、同居解消後疎遠になっていた見砂から電話がかかってくるところから物語は始まる。

どうやらスピリチュアル方面に傾倒していそうな見砂の母(寧子=ネコさん)は、成人している娘に干渉することを欠かさない母親として描かれる。それを跳ね除けることもしない見砂は、いったいどこに自分の意志が? と思うような、相手(というかよしえ)をイラつかせるタイプの女子として描かれる。
ネコさんはやがて、見砂ではなくよしえに直接電話をかけてくるようになる。過去に自分が女優になりたかったこと。その夢を娘に託していること。経済的に苦しい生活をしているよしえと、(間接的に)よしえの母へのマウンティングも欠かさない。(よしえはよしえで、見砂への干渉の度合いを深めていく。)

しかし、見砂が鳴かず飛ばずでいる期間が長くなってくるにつれて、ネコさんは娘を否定し始める。あの子はやっぱりダメなんじゃないか。そろそろ家に戻そうかと思っているのよ、と。
そこへよしえがすかさずマウントをとる。見砂の家庭環境や、男関係のこと、ネコさんが知らないことをチラつかせ、彼女が度を失うのを察知して内心ニヤニヤしているよしえの反撃が、こわい。挙げ句の果てに、自分が小説家としてデビューするのだという嘘をつき、完全にネコさんを突き落としてしまう。

ネコさん、わかった? あなたの娘より、わたしの母の娘のほうがすごいんだよ。わたしの母の娘のほうが、すごいの。わかりましたか! わたしはネコさんの鼻先に人差し指を立てて、はっきりとそう言ってやったような気がした。

ここまで読むと、よしえがたんに見砂相手だからこのキャラなのだというばかりではないことがわかる。
「どのバイトでも疎ましがられ、知り合いはいてもひとりの友達もいないわたしが話をできる相手は見砂以外にもうずっと、ネコさんただひとりだったからだ。」
いやはや。

よしえ、見砂、ネコさんの誰にもなりたくなくて、正直かなり不快なタイプの小説。なぜ未映子さんはこんな作品を書いたんだろうと思ってしまうくらいだ。彼女の作品が単純だったことなんて一度もないのに。

話の最後、よしえは見砂に電話を掛け直す。このあと、長いこと断絶していた二人の関係がまたも復活することを思うと(しかも今度はネコさん不在の、これまでとは違ったバランスになる)、まさに地獄である。春のこわいもの、極まれりという感じだ。

この記事が参加している募集

読書感想文

スキやシェア、フォローが何よりうれしいです