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橘忠衛エッセイ集「火崑岡に炎ゆれば」③

さてさて、今回でこのエッセイ集については最後にします。最後に一つ、外国語についての話がとても勉強になるというかハッとさせられる。
橘先生の考えは、この「火崑岡に炎ゆれば」の軽妙洒脱で端正な文を読めば誰にでもすんなり入ってくるはずなので、その弟子の方から聞いた話を以下に引いてみる。

先生: 英文科に入ったからといって、英語だけやっていればいいってもんじゃないぞ。外国語を二つやれ。

弟子: はい、第二外国語はドイツ語です。

先生: 第二外国語じゃだめなんだ。第一外国語を二つやれ。つまり、ファーストハンドで外国語を二つやりなさい。そうすれば、イギリスをやっていても、イギリスがヨーロッパの一部だということがわかる。同じように、ドイツ文学をやっているからといって他の外国語をおろそかにしたら、ドイツがヨーロッパの一部だということがわからない。これから、きみたちの若い世代はヨーロッパが相手なんだ。ヨーロッパおよびアメリカ、やがてはアジア。やがては中南米諸国。やがてはアフリカ大陸。このようにして、やがて世界は一つになっていく。その時に、ある一つの言語だけに凝り固まって、これがいくらしゃべれて、書けて、読めても、それでは学者と言えんよ。

* * *

別途書かれているが、大学の「第二外国語」が実際的に使いこなせるようになる大学生は多分ほとんどいない。それどころかわたしの場合は英語すら使いこなせない。なのにドイツ語なんてもってのほかだったのだ。

ちなみに橘先生が、二つの第一外国語として提案するのは英語(イギリス文学研究者なのでこれは前提として)とドイツ語なのだが、それはなぜなのかというと、以下の通りだ。

われわれはそれをイギリスとしてのヨーロッパを掴むための方便として使役する目的を持っているので、その国にもまたその国としてのヨーロッパ性が豊かであること、その国のイギリス文化に対する関心の旺盛であることが望ましい。そして英語とその国語とを持っておれば多くのヨーロッパ語を持つことに似た便宜が保証されるような事情のあること、つまり翻訳活動に情熱のある国であることが望ましい、となると、私の考えではフランス語よりはドイツ語がよい。そしてその国語は、どちらであるにしても、われわれと同じく外国文学としてイギリス文学を研究しているという立場上の共通性から、イギリスの学者の全く提供しえない視点を開いてくれるのである。第一外国語の数は、大まけにまけて、このような条件での二つがぎりぎりである。ぎりぎりのぎりである。

翻訳が盛んなのは日本やドイツなどの後進国である。これって本当におもしろいな。20世紀に起きた世界戦争が、どういう戦争だったのかがよくわかる。

こんな橘忠衛先生の思い出を聞ける機会が、今年6月にあるはずだ。詳細が決まったら告知します!

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