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被虐サバイバーの幸せについて本気出して考えてみた結果が出た

とあるnoteにコメントした内容のまとめなおしになります。コメに対しての返事が待てど暮せど来ないので、悲しいから書きます。

あくまで私の被虐経験をもとにしてるので、そうでもないよって人はスルー推奨。コメントでの指摘、自身の体験談も大歓迎です。私は被虐の人の心情を一切否定しません。どんな経験にも耳を傾けます。

被虐の幸せってなんだろうね?

虐待に縁がない、健全な家庭で養子として過ごすこと?被虐経験を忘れること?

んなわけあるかい。
そんな都合よく百までの魂を書き換えることは で き ま せ ん !!

死にかけるまでネグレクトされても、体がめちゃくちゃになるまで性虐待されても、その記憶だけ都合よく切り取って捨てることはできませんからね。

何を幸せと考えるのかの素地が違うのよ

まず、生まれたばかりの赤ん坊は「自分のために世界が回ってる」ように考えます。泣いたら助けてくれると信じています。普通の養育者であれば、泣いたらおしめかえたり、ミルクくれたりと、泣いた理由を取り除いてくれます。ですが虐待を受けるとその大前提のところが崩れます。「たすけて!」のサインによって、暴力や暴言が起こることにやや混乱します。しかし、そもそものところ、死にたくて産まれて来る子供はいないです。生きるために産まれてくる。そのため産まれた環境=生きられる環境、生きるのに必要な環境と感じてしまうのです。これは、理性も感情もない幼いころからの刷り込みによるものです。この刷り込みを根底から変えることは相当困難だと感じています。

愛情の受け取り方も歪んでるんですね

被虐の子供は、暴力を愛情表現と感じることが多々あります。DV彼氏にハマるのも、その一つわかりやすい例ですね。ときたま、もともと暴力的で無い人と付き合っても暴力を振るわれるようになる…ということもあります。たとえば試し行動によるイライラ、信頼したぶん信頼し返してもらえないもどかしさなどから、おとなしい人でも手を上げるようになります。このように被虐子は、“無自覚のうちに”他者の暴力性を引き出してしまいます。一般的な子供が「かわい〜!」って言われる(=喜ばれる、求められる)からニコニコするのと同じです。
いつもどおりのパターンが無自覚レベルで落ち着くのです。だってそれが当たり前だから。当たり前のことを繰り返すことで、産まれてきた本来の場所に帰ってきたような気がするのです。

でも、体の痛みや飢えの苦しみはついてまわります。“だから”辛いのです。心は落ち着いているのに、体は痛い、辛い、もうやめてと言ってくるのです。

このたとえ話は暴言暴力で書いてますが、性虐待でもネグレクトでも同じです。自らの産まれた理由、受けてきた扱いを正当化するために“試す”のです。

そこんとこが虐待未経験の人には理解不能

ステップファミリーの義父(義母でも誰でも)の思う「おとうさんになる」は、子どもにとっての“おとうさん”になるのが目的ではなくて、社会的な“家族”というユニットになりたいという願望が露呈したものと感じます。どうせ、連れ子も立派に育てて偉いですねって近所で言われたいだけじゃないか…と養子縁組すら恨む子供の気持ちを想像できますか?

「だって産まれたところがそこなのだから、愛こそが暴力で、ネグレクトで、性虐待なんだから」と信じてる被虐子を、「不安定極まりない“無償の愛”とやらで包む世界」に突き落とす覚悟はあるんですか?それは虐待経験のない人が、虐待が当たり前の育ちにされるのと同じくらいの辛さを伴う行為なのです。

私の被虐経験と愛情の歪みについての解決法はこれでした

↓の記事で、すこーしだけ触れていますが…うちは「心理的ネグレクト」「暴言」「暴力」でした。

心理的ネグレクトってわかりにくいんです。
たとえば虐待しない親は、子が怪我をしたとき、真っ先に子供自身が無事かどうか気にします。
本来のネグレクトだと病院に連れて行ったり手当したりすることをしません。そのため虐待が見た目でわかります。
心理的ネグレクトは手当はするけど淡々と機械的に行われます。大抵そこに言葉の暴力がついてきます。(怪我するなんて馬鹿な子だ、迷惑だ、服が汚れる、医者代がもったいない、生まれてこなければよかった…等)
怪我などがなくても、折に触れ日常的にこのような言葉をかけられながら世話されるのです。
そうすると、手間かけさせて申し訳ないな、自分が生きていていいのだろうか?本当に迷惑なら死のうかな?と考えてしまうのが心理的ネグレクトを受けた子の思考パターンです。私が産まれた目的は自殺で死ぬためなんだ!となります。
なんで産んだんだって気持ちにもなるけど、その気持ちは大抵出自にあたってのトラブルがわかり始めてからですね。理由なんて断片的なところからだけでも案外簡単に分かるんです。
たとえばデキ婚の子だからいらない子、不倫してできた子だから、女の子だから、末っ子だから……生まれてきて欲しくなかったんだな。だから、死んでしかるべき存在なんだなあ。私の場合、そう自覚するのは未就学のころでした。うちの場合はデキ婚+結婚詐欺でした。親が嫌いだから自分も嫌い。

しかし、心理的ネグレクト、見た目で分からないのがたちが悪いです。こんなに生きるの大変なのに。普通『虐待されてる子供』っていうステレオタイプは、きっと、薄汚れた服・ガリガリの体・アザだらけ・不潔、ってところでしょうか。心理的ネグレクトをする親は、基本的に世間体をめちゃくちゃ気にします。その程度には知能があるのです。アザなんか見えないとこにつけるし、手を上げるよりもっと効果的な方法で子どもにダメージを与えます。それが言葉の暴力です。

そして、これはうちだけの特殊パターンかもしれないけど、お金はかけてくれたんです。旅行とか食事で。服とか持ち物はなかったけど。養親なのにこんな社交の場にも連れ出すなんてご立派ですねって言われるためのアクセサリーとして、お金をかけてくれました。それでもよかったんです。命はつながるしその間は暴言もない。帰り道の車の中はすごかったけど。「ああふるまえ、こう言え、あの発言はだめだ」ってね。けど、アクセサリーとしてであれば必要とされる。ここにいてもいいのかもしれない。せめてもの自分の価値なんだと思ってやっていました。当然ですが無償の愛なんかありません。目的があるから飼われているだけです。

それ故に愛情をお金で測りがちなんですよね。悪い癖です。性格がどんなに歪んでても奢ってくれれば好きになるし、素手ならどんだけ殴られても大丈夫。金槌よりは痛くないもの。だからひどい男ばっか引っ掛けたし、ひどい扱いされた女の子と惹かれ合ったりしました。

今は、私をとにかく甘やかしてくれて、人間扱いしてくれる人と結婚して、一応まあまあ幸せです。

つまり被虐サバイバーの幸せは
①被虐経験を受け止めてくれる、理解する気持ちがある(表面上だけではない)
②被虐経験により歪んだ愛情の受け止め方に合っている(依存しすぎない程度に)
③何よりも自分を優先してくれる
これらを確実に満たす人と一緒にいることだと思うんです。家族でも恋人でも友達でも。

結局のところ、自分の生まれにあった考え方への調整方法や、自分のことをパートナーへ理解してもらう方法、などは反響があったら書こうかなと思います。

まあ、この記事にも件のコメント返事くれない人は、コメントつけてくれないと思いますがね。

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