デザイン思考イントロダクション - クリエイティビティについて考える課題


大学院、始まりました。9月からだと思ってのんびりしていたら、一つのモジュールは8月21日から。2週間後の9月3日が最初の締め切りです。あとモジュール2つ取っているので、他の締め切りも近々やってきます...。オンライン大学院だから自分のペースでと思っていたのは甘かった。パートタイムでやっで一つも落とさなくて4年... 長いな。

さて、一番最初に始まったモジュールは、「デザインのセオリーとメソッド」です。教科書はIDEOの『The Field Guide to Human-Centered Design』、無料でダウンロードできます。

初回のセッションは、デザイン思考とHCDのイントロダクション。課題はこの教科書を読み、以下のビデオを見て、さらに自分で色々と読んでデザイン思考とクリエイティビティについて考えよ、というものでした。どちらも一度見たことのあるものでしたが、見た後にものを書かないといけないと思ってみるとまた違って見えるものでした。

Sir Ken Robinson: Do schools kill creativity?

学校教育は人間のクリエイティビティを殺している、というTEDトークでかなり有名なものです。

Sir Ken Robinsonはイギリスの教育者で、リバプールの労働者階級に生まれました。Sirという称号を、アートの教育者として2003年に与えられました。日本語にするとナイトとか勲爵士です。イギリスのアート教育のプロジェクトを指揮したり、大学で美術教育について教えたりしてきています。

このトークの趣旨は、人間は生まれながらにクリエイティビティを備えているのに、私たちは現在一般的担っている伝統的教育によって、成長する間にそのクリエイティビティを殺されている、という内容。もしエイリアンが地球に来て、教育の最終目的は何かということを考えたら、きっと「大学教授を量産すること」というだろう、と。日本の場合は「従順な企業の従業員を量産すること」となるでしょうか。

アートやダンスや音楽が好きな子の多くが、成長する段階で「アートでは食えない」と言われてきたことでしょう。私自身もそうでした。

このビデオの中で、子供がお芝居の中で「Frankincense(フランキンセンス)」というセリフがあったのですが、おそらく覚えられなかったのでしょう「Frank sent this(フランクセントディス - フランクがこれを送った)」と自信満々にいうというエピソードがありました。子供は失敗を恐れず、オプティミスティックで、クリエイティブにチャレンジするのだという例です。

私の娘も以前、何かの言葉の一部で「ビ」とカタカナで書かなくてはいけない時に、「ヒ」がわからなかったらしく「火〝」と書いていました。大笑いしてしまいましたが、この発想は面白いし、自分の知っている情報から新しいものを作り出す、それが当たっているか間違っているかは気にしない、という姿勢が素敵だな、と思いました。

Theo Jansen: My creations, a new form of life

こちらのビデオはとあるアーティストが、新しい生命体を作り出した話です。パイプをつなげて作ったビーチで生きる巨大な生き物です。「生きる」という表現をしているのは、つまり電気は人の力を借りずに、その生物は生き残ることができるからです。風を受けて自分で歩きまわり、海の水に触れると溺れないように逃げ、台風が来る時には自分を砂浜に打ち込んで固定します。これら全て、電気なしで行われます。

Theo Jansenはオランダのアーティストで、1990年からこの巨大な生命体を作り続けています。いったいどれだけの試行錯誤があったことでしょうか。途中、新たな車輪のメカニズムを発明したり、アーティストというよりもメカニカルエンジニアでは? と思うようなものですが、彼のやっていることは間違い無くアートでもあります。

"The walls between art and engineering exist only in our minds.
アートとエンジニアリングの間にある壁というのは、私たちの頭の中にだけある。"
- Theo Jansen

いわゆる伝統的教育の中では、彼のような生徒がいたらどう扱われるでしょうか。変人扱いされておしまいでしょうか。それとも、激励されてその道を突き進むことができるでしょうか?

クリエイティブであることの簡単さと難しさ

クリエイティブであるということは、子供の頃は簡単だったはずなのに、大人になるとなかなか難しいのは、成長する中でクリエイティビティが殺されてきたからかもしれません。日本では「出る杭は打たれる」という通り、みんな打たれてならされてきてしまったのです。

子供たちの発想の自由さに触れてハッとすることが多くあります。間違いなんてないのです。

また、同時に、私が娘のクリエイティビティを殺しているな、と感じる瞬間もあります。娘はずっとモンテッソーリ教育を受けているのですが、モンテッソーリでは点数による評価はありません。日本に行った時には日本の小学校に体験入学させ、それから国語や漢字の学習には日本で買ったシートなどを使っています。これらが点数式なのです。

娘は国語の勉強をする時には100点を取ろうとします。それ自体は悪いことではないのですが、目的が100点を取ることになっていて、学ぶことにはありません。たとえば「南」という字の読み方があった時に、あてずっぽうに「きた」とか「にし」とか言います。4つのうちのどれかだというのはわかっているので、正解を当てるクイズになってしまっているのです。

漢字についても、とりあえず答えと同じものを書いておけば良い、と思っている節があります。どんな意味か、なんと読むか、を知らなくても、シートに答えとして書かれたものを採点者が見て丸をつけるようなものを書けばいいと思っているようです。

国語以外ではこの傾向はありません。算数はきちんと計算するし考えます。算数の点数はどうでもいいようで、計算の過程自体を楽しんで、自分で新たな計算方法を考案したりします。そして、国語が一番嫌いです。

私は点数式シートを導入することによって、娘のクリエイティビティを殺しているのでしょうか。


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