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選ばれている

私は時々、私が選んでいるように見えて、動かされているのかもしれないと思うことがあります。

今日部屋に置く花を見ていた時、下の方においてある花に、一瞬スカートが引っ掛かりました。

そういう時、花の妖精がスカートをちょんちょんと引っ張って、
『連れて帰って』
と言っている声が聞こえるような気がして、迷わず買って帰ります。

後は何気なく花を手に取ったもの、たくさんあるのにパッとその一つだけが目に入った瞬間、そういう無意識の意識みたいなものを大切にしていて、その時には、

金額がーとか、置く場所がーみたいな、一瞬よぎる左脳の声は完全に無視して購入して帰ります。

私はこういう時、私が選んで買っているように見えて、実は花から選ばれているのかもしれないと思ったりします。

ですから、家に来てくれた花にはいつも『来てくれてありがとう』と声をかけています。

私は時折自分の人生や生き方も、私が選択していると思っていても、実はそのように動かされているのではないか、と思うことがあります。

この世に偶然はないというように、意志だけではどうしようもないこともたくさんあります。

なぜなら生き方や人生のすべてをコントロールできるように、人間は作られていないからです。

では、動かしているのは一体誰なのでしょう。

それは潜在意識とか、集合意識とか、もっともっと奥深いところから無数の絡み合ったものの中から、すべての出来事、経験、縁は結ばれていて、そうするようになっているものもあるではないかと思うのです。

中には、私はこんな縁を望んではいない、こんな経験は選んではいないということもあるでしょう。

私もそう思っていました。
なぜなら、それは私の意志だからです。

意志と、出来事や経験は実は全く別のところに存在している場合もあるのではないか、最近はそう思うようになったのです。

例えば、私の意志で人生をコントロールしようとしたとき、好きなことをして、自由な生活をし、経済的にも豊かな生活を送る、先の不安も心配もない、物質的にも、精神的にも満ち足りた生活をイメージすると思います。

今の生活が、そのなりたい姿とかけ離れていたら、不満を感じるでしょう。
なぜなら、私の意志の通りになっていないからです。

ただ、そのイメージ通りではない今の姿こそが、私とは別の、もっと大いなものの意志だったらどうでしょう。

私の小さな脳では計り知れなほどの、広い視点と高い視野で見た時に、満たされていない私の姿がまだ成長の途中段階であるならば、今この状況が正しいのです。

まだ小さな子供が、私はもう車の運転をしたいし、大学生のような難しい勉強もしたい。
お酒だって自由に飲みたいんだ、と言われたらどうしますか。

たいていは、それができる年齢になるまで待ちましょうとか言って止めるし、その年齢でできる勉強を教えるはずです。

私には何でもできるんだ、というのは、人間レベルでとりあえず二十歳は過ぎたし、自分でいろんな責任を取る年齢になった、というだけです。

ですから、実はものすごく長い目で見たら、というか神さま目線とか宇宙意志からしたら、もしかしたら子供どころか、まだよちよち歩きの赤ちゃんかもしれません。

赤ちゃんが、人生をコントロールできる!って言ったり、自分の思い通りの人生を引き寄せると言ってもその通りにはなりませんよね。

ですから、人生を何とかコントロールして、自ら手綱を引くのはやめて、任せるんです。

赤ちゃんの気持ちになってみれば、いいかもしれません。
赤ちゃんは無邪気です。

どんな生命でも、生まれたばかりの姿は神々しく、見るものの心を癒します。
それはまさしく無邪気、邪気が無いからです。

邪気がないということは、すべてを完全に委ねた姿だと思います。
人間だったら、委ねるのは周りの大人です。

その時赤ちゃんが、
『この大人が言うことは信用ならない』とか
『この人の言うことは間違っている』と言って
批判することも、否定することもありませんよね。

また、
『ここは気を遣って笑っておこう』とか
『あれは嫌だけど、我慢するか』もないです。

ただ、無邪気に好きなことを喜び、嫌いなことを嫌がる、ということしかしていないと思います。

私達は、まだその赤ちゃんのような存在だとしたら、どうしますか。

赤ちゃんに出来ることは、与えられることを時に喜び、時に悲しみ、だけど、この人生を何とかしようとはせず、またコントロールしようともせず、無邪気にすべてを受け取るだけでしょう。

確かに感謝できないほど辛いこともありますし、どんなに努力しても叶わない願いもあります。

ただ、結果が出るには時間がかかるのです。
その年齢になってからではないとできないとか、免許が取れないみたいに。
場合によっては、いくら願っても叶わないこともあるでしょう。

子供が危ないことをしていたら、周りの大人は止めるように。

もしかしたら、この人生の長さではまだ結果が出ないかもしれません。
そうとわかれば何事も焦らないで済みます。

ですから、自分を責めたりせずに、与えられることに喜び、感謝しながら、今この瞬間を過ごせばいいのではないでしょうか。

散々偉そうに書いていますが、以前から花は好きでしたが、忙しくて世話ができないこともたくさんありました。

そのため、近所の方にいただいても『世話が面倒だな』としか思っておらず、すぐに枯らすこともよくありました。

花が増えて、うちに来てくれるようになったということは、
『まあ、多少まともになったようだから行ってやってもよい』
と、花から思ってもらえるようになったかなと最近は思います。

これからも花から選ばれる人間でいたいなと、思っています。

皆さんはいかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!

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