見出し画像

可哀そうな人

先日、ある人と話をしているときに、ふとこのように思いました。

私はこの人を助けたいと思っていたのだな、と。

周りの人を助けるというの非常に崇高な行為だと思います。
それによって救われる人も多く、人を幸せにするでしょう。

しかし、その時の私は、助けを求められてもいないのに助けてあげたいなと思ったのです。

この、助けを求められてもいないのにというのには、非常に深いからくりがあって、そこに自分でも気が付かなかったというのがさらに闇が深い気がしました。

助けてあげようなんて、これほど傲慢な考えはないでしょう。
なぜなら、相手が助けを求めていないのに手を貸そうとするとき、すでに私の中ではその方に対して、どこか可哀そうな人として認定しているからです。

それは、私が勝手に作ったルールに達していなかったり、到底そこに近づくこともない人だと考えて、そのような人だから可哀そうに、助けてあげましょうと言っているのです。

それに気が付いた瞬間に、私の心が透けて見えて、本当に申し訳ない気持ちになりました。

それぞれが、自分のスピードと学ぶ課題を持って切磋琢磨しているでしょう。

私には私の、その人にはその人の越える課題があり、どちらかに優劣はありません。
もちろん、人と比較して自分を保つことも多くありますから、そのように考えてしまうこともあると思います。

ただ、無自覚でいたこと、それどころか良いことをしてあげていると考えていたことに驚き、自分の心の中にある深い闇を感じました。

助けてあげられる自分に、どこか自己重要感すら感じていたかもしれません。

自己肯定感は高くなくても良いと思います。
ただ、他の人を利用して、自己肯定感をあげようとするのはやり方としては間違っていると思いました。

もしも、自分を認めたいなら、自らが成長して、自分で自分を褒めてあげればいい。
比較するのは過去の自分とだけです。

そして、相手を可哀そうな人と思うということは、その時点ですでに相手の個性を否定しています。信用していないのです。

表層的な感情だけを見ていると、本質がわからなくなることが多くあります。

それは周りの人だけではなく、自分の心の奥底にあるものも同じでしょう。
自分の事が一番わかっていない、ということはよくあることです。

相手が自分の写し鏡であれば、私もまた可哀そうな人だったのです。

知り合いのシスターさんからいただいた本に、このように書いてあったのを思う出しました。

悪意には二種類ある。
一つはわかりやすく悪事を働くこと。
もう一つはまるで良いことをしているように見せかけて、わからないように悪事を働くこと。

当然ながら、後者の方がより罪が大きいように思いました。

可哀そうな人を勝手に作ることで、自分が満たされたいと思っているのならば、すでに私は満たされていませんと認めているのと同じです。

そういう心がある自分に気が付かせてもらえたことに感謝し、その自分が顔を出してくるたびに身を引き締めたい気持ちになりました。

今日もお読みいただきありがとうございます!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?