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掻き立てるもの
前回とつながりがありますが、今回も欲を掻き立てるものについて考えてみたいと思います。
多くの宗教では、欲を制限したり、コントロールすることを目的としていますし、自我を捨てることで、悟りの境地に至ることを目指しているでしょう。
私は欲を捨てました。
もう自我を手放したんですよ。
捨てられないものを捨てたと言い切ることの危険性と言いますか、欲や自我から離れられると思い込んでいる時点で、どこか見誤った方向に進んでいるかもしれません。
なぜなら私達は、欲を捨てることも、自我を手放すこともできない存在だからです。
本来人間とは、その欲や自我があるということに否定も、ジャッジもせず、見つめることしかできない存在なのではないでしょうか。
ただ、その時に自然に心の中から湧き上がる、欲や自我だったらいいのですが、外側からの影響や、何かの刺激を受けて、欲を出すように誘導されていないかどうかは注意が必要です。
資本主義社会ですから、多くの場合、いろんなものをどんどん購入することで経済を循環し、社会が豊かに潤うような気持になるでしょう。
物がない時代から、いくらでも物が買える時代に変わり、今はどこへ行っても物に不自由することはなくなりました。
すでに物質面では満たされてしまったにもかかわらず、企業はさらに購入してもらうことで、利益を上げたいはずです。
ですから、量産し、価格を下げたり、様々な広告や情報、SNSを通じて、購買意欲を掻き立てる必要があります。
そんなに欲しくないのに買ってしまったり、必要を迫られたり、場合によっては不安をあおって購入に繋げようとするところもあるでしょう。
そうやって消費者がどんどん物を購入していくうちに、本心では一体何を望んでいるのか、私が一番欲しいものとは何なのか、本当の気持ちが見えにくくなってしまうような気がするのです。
特に見るわけでもないのに、テレビを流すことが習慣になっている人であれば、コマーシャルも含めて、聞く気がないのに耳に入ってくるとか、興味がないのに目に飛び込んでくるという、刷り込み効果もあります。
偏った情報や、欲を刺激する映像など、本当にそれは必要なのかと思わせるものなどを見かけた時、とても残念な気持ちになりますが、それと同時に消費者である、見ている側も、見るもの聞くものを選ぶ必要はあると思うのです。
誰かがこういったから、周囲がこうだからと同調圧力で一緒に動くのではなく、一旦落ち着いて『考える時間』を設ける。
映像を見たり、テレビを流している時、その多くの場合は考えるという機能が停止しています。
言われたことを言われたようにすればいい。
頭で考えるのをやめると、だんだんそうなっていきます。
それはまるで機械のような働きです。
機械は言われたことだけすればいいのですから、それ以上も以下もなく、しないといけない理由を明かす必要もありません。
学生の頃、ある質問があり、当時担任の先生に、
『この問題はなぜこうなるのか』と聞いたことがあります。
先生から帰ってきた答えは、
『そういうものだ』と、
『言われたようにすればいい』と言われ、
以来、二度と質問に行かなかった覚えがあります。
今となってみては、結局納得させるだけの答えを持っていなかったのかなと思いますし、それと同時に先生自体が、
『そういうものだ』
と、問題が起きても何の疑問も持たずに、言われたことをただ言われたようにしかしてこなかったのかもしれません。
今は特に様々な情報があふれていて、自分の本心も、真実も見つけるのは難しいかもしれません。
その中で、周りが言っていることや、大声で流されている情報が正しいかどうかを見分ける能力があった方がいいと思うのです。
ただ、情報は偽りと真実を織り交ぜて発信させていることも多く、その真偽を確かめるのが難しい場合があります。
ですから、普段からふと感じる違和感や心の中の感情、もやもや、周りが良いと言っていても、何かが違うと感じるものがあれば、それを無視しないで心の声に耳を傾けることが大事だと思います。
そして、何かを欲したとき、それは果たして心の中から来たものなのか、それとも外側の影響によるものなのか。
真実を見極める目を持つことが必要な時代になっているのでしょうね。
いかがでしょうか。
今日もお読みいただきありがとうございます!
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