「普通の眼には見えないもののために心を痛めること」窓ぎわのトットちゃんそしてゲゲゲの謎

12月に入って少し時間ができたので、映画を観てきました。
「窓ぎわのトットちゃん」と「ゲゲゲの謎」。どちらもTLでの評判が良くどんな映画なのか気になっていた。
多くの人が指摘している通り、映画の趣は随分違うけどどちらも反戦というメッセージが軸になっている点は共通していた。戦前~戦中がトットちゃん、戦後がゲゲゲの謎。そして(私の思い込みに過ぎないかもしれないけれど)「眼には見えないもの」を大切にする点も共通しているように思われた。

窓ぎわのトットちゃん

映画版の「窓ぎわのトットちゃん」では、トットちゃんと泰明ちゃん、そして少しずつ近づいてくる戦争が物語の主軸になっている。私の最も印象に残った場面は、泰明ちゃんのお葬式直後の場面だ。
泰明ちゃんを失った悲しみを抱えて、トットちゃんは走る。華やかに兵隊が行進する表通りを、息子の遺骨を抱えた母親のいる路地裏を。無邪気に戦争ごっこをする子供達の間を、片足を失った兵隊のそばを。トットちゃんは走る。表通りと路地裏の家。あの時代の戦争の表と裏。表では「大日本帝国万歳」「お国のために」。だけど、その裏にどれだけの悲しみがあったのか。表には出てこないものを見なくてはいけない。隠れている、社会に隠されているものに眼を凝らさなくては。そういうメッセージを感じた。

ゲゲゲの謎


「目で見えるものだけ見ようとするから見えんのじゃ。片方隠すぐらいでちょうどいい」

ゲゲ郎

ゲゲゲの謎で印象に残った台詞。多分見た人はみんな印象に残っていると思う。
この「目で見えるものだけ見ようとする」人間や「目に見えないもの」を信じようとしない人間への批判は、大きな文脈で言えばいわゆる「科学」的、「客観」的であるとされるもの(分かりやすく言えば「数字」そして、この社会であらゆるものの価値を計る尺度として用いられているのは「カネ」である)しか信じない人間への批判だと思う。言い換えれば、人の命や感情をないがしろにし、人間を数値=カネとしか捉えない徹底的な資本主義・帝国主義を批判しているのだと思う。これは、太平洋戦争での経験から、戦後金や権力に執着し「使える」人間になろうとしていた水木が、ゲゲ郎との出逢いを経て最後にはそれらを「つまらない」と切り捨てたという変化からも読み取れる。
そして、意地悪く言えば、太平洋戦争での敗戦を経たにも関わらず、こういった資本主義・帝国主義的な思想から脱却できないでいることにすら気付かず、むしろ自分は支配する側なのだ、この国は豊かな国なのだと無自覚に思い込んでいる、多くの「日本人」への批判になっているようにも思えた。

普通の眼には見えないもののためにも心を痛める

黒柳徹子さんの『小さいときから考えてきたこと』(平成16年、新潮文庫)の中に、チェーホフの「兄への手紙」が引用されていた。

彼等はただ、乞食や猫に対して同情を持つばかりでなく、普通の眼には見えないもののためにも心を痛める。

私は映画のトットちゃんを観てからこの本を読んだので、もしかしたらただのこじつけかもしれないけれど、トットちゃんの映画のあの場面で描かれたことはこれじゃないのか?と思った。そして、この「目に見えないもの」への目配りは、ゲゲゲの謎とも通じているんじゃないかと思う。

残念ながら、今この国を動かしている人々に「目に見えないもの」への想像力を養おう、育てようという気概は全く見えない。むしろ、そういった「目に見えないもの」に目を向けるな、「目に見える数字=お金=消費と生産」だけを考えろというメッセージすら感じる国である。
映画のラストにゲゲ郎こと目玉おやじが「残念じゃがこの国はあのとき思い描いたような国にはならなかった」(うろ覚え)的なことを言っているのも、この点にぴったり当てはまっている。だからこそ私は大きなものに目隠しをされないように「目に見えないもの」に気付けるように、自分にできることをやるしかない。


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