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朝日新聞「フェミニズム『感じよく』存在感」について私的解説①ーポピュラーフェミニズム

 7月14日の朝日新聞に「フェミニズム『感じよく』存在感」という記事が掲載された。
長くジェンダー平等に関わる仕事をしている私にとって、この記事はモヤモヤしていた状況をうまーく整理してくださっていて、とてもタイムリーで今っぽい記事、そして賛否分かれるテーマをバランスよく書いている、という印象で、ピックしていた。

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一方で、新聞の朝刊にこのテーマ…、みんなどう思って読んでいるのだろうか、とも気になった。非常に読者を選ぶ記事だな、と。


ジェンダーのことを「よく知っている人」「よく知らない人」という区分が私が嫌いだ。講座で講師をする時も、「ジェンダーのことをよく知っている人が、よく知らない人に教えてあげる」という構造を嫌い、そのことをかなり丁寧に説明しているつもりだ。ジェンダーの知識よりも、経験や想いが何よりも大切だと感じている。
一方で、全ての人は今日ここからジェンダーについて学ぶべき、とも思う。もちろん私も、仕事で色々な女性やマイノリティに関わる責任として、もっともっと学ばなければならない。けれど、現時点で学んでいるからといって、それが権力、パワーになってはいけないと強く思う。

この記事を職場の後輩に読んでもらって感想を教えてもらった。彼女はジェンダーのことは関心が高く、本や文章を読むのが得意(少なくとも私よりはずっと本を読む)である。
しかし「言葉が頭に入ってこない」「冒頭の文章のカタカナが読みにくい」とのこと。
そうだよなーと思っていたら、最近ジェンダーやSDGsについて関心を持ち始めたという知り合いから「この記事をSNSで読んだんだけれど、全然わからないから解説をしてほしい」と相談を受けた。
それで、この記事を書くことにした。自分の勉強にもなりそうなので。

ポピュラー・フェミニズム

この記事は3つの言葉をキーワードとして展開されている。
その1つ目が「ポピュラー・フェミニズム」である。
その名の通り、「大衆的、大衆向けのフェミニズム」ということ。
この記事の見出しでもある『感じよく』という言葉は、このポピュラー・フェミニズムのことを指している。

ポピュラーの対義語は、マニアックだろうか。
フェミニズムとは、運動であり、学問であり、生き方であり、物事の見方でもある。(と私は思う)
私自身、ジェンダーに関する仕事を長くしているが、「ジェンダーの問題は一部のフェミニズとの関心事」であり、「すべての人に関わる問題である」ことを「啓発」「啓蒙」する、ことが必要だと思われてきたのではないだろうか。
そんな課題感をずーっと持っていた人間からすると、ポピュラー・フェミニズムは長年夢見てきた景色である。

もう8、9年ほど前だろうか。
当時とってもお世話になっていて可愛がってくれていた上司は、ジェンダーのことはあまり関心がなかったが、違う分野の活動家であった。
その上司からある日、「ちょっと話がある」と会議室に呼ばれた。
個別に会議室に呼ばれる、なんて、何か大事な話なのだろう、とドキドキした。
しかし、彼がいったのは拍子抜けするのような言葉だった。
「あなたの今日きている服は、50歳くらいになってから着れるから、別の服を着た方がいいぞ」
その日、私は古着の花柄のワンピースを着ていた。黒字にオレンジや黄色の小花柄でくるぶしくらいのロング丈だったと記憶している。
一瞬びっくりした。
その上司は、いつも同じセーターを着ていて、ご飯粒でもついているのではないか、というくらい服装に無頓着だった。
彼はこう説明した。
「あなたの仕事は、ジェンダー平等が実現された社会はとても素敵で、希望がある、ということを示すことだ。だから、あなたはそんな歳を取っても着れる服ではなく、憧れられるような服を着なさい」と。
頭ではよくわかる。うん。
でも、その時感じたモヤモヤが、当時はわからなかった。
「好きな服も着れないで、何がジェンダー平等だよ」という言葉が当時の私からは出てこなかった。

上司の考え方を、今は客観的に批判することはできるが、私だってこれまで同じようなことをしてきた。
フェミに興味のある人ばかりで学んでいると、すごく楽しかった。安心感があった。
選挙前に、政治の話、女性政策の話をしていると、すごく心強かったし、同じ価値観で話していると安心して、想いを話すことができた。
でも、選挙結果を見ると、いつも「フェミばかりで話している"当たり前”は全然世の中の当たり前とは違うんだよな」と愕然とした。
いつしか、同じ価値観の人で話していると不安な気持ちになっていった。
同じ価値観の人と話して、想いを強めれば強めるほど、周りとかけ離れていく気がした。
「聴く耳を持ってくれる」ようにすることに注力した。
少〜しずつではあるが、ジェンダーを理解してくれる人が増えてくるように感じられた。

3月8日は、国際女性デーである。
最近は、新聞をはじめとする多くのメディアで特集が組まれる。
2020年の国際女性デーは、悲しい(と、私は感じた)出来事があった。
TBS報道局川畑恵美子記者のnoteを発端に、「感じのよいフェミニズム」をめぐり、論争が起きたのだった。

「社歴は20年を超えた。スーツを着れば、圧がかかる。何気ない一言にも、後輩にびくっとされる。そんな私がジェンダーを語ったら、バリバリのフェミニストに見えるだろう、少なくとも会社では。ああ、ついに私もそうなったか。なりたくなかったあれに。いやいや、ちょっと違うんです、違うんだなー。そもそもこれまでの「フェミニスト」って何?男社会に対し、異を唱え、論破して、傷ついても立ち直る人?とてもじゃないけど、私はそうはなれない。体力も、気力も持たない。私がなりたいのは、男社会のテレビ局の報道フロアの中にあって、男性目線のニュースばっかり出していたら、本当にダサいし、視聴者から離れていくから、「ニュースの幅を広げましょう」「多様なニュースを出していきましょう」と呼びかける存在。その存在にまだ名前はついていないんだけど。」

この川畑記者のnoteには、賛否両論が渦巻いた。
特に「なりたくなかったあれ」という表現は、女性の権利を勝ち取るために苦労をしてきた先輩方を侮蔑するものだ、という声が多かった。
また、この記事が、メディア連携のプロジェクトの一環であり、その連携プロジェクトの趣旨が「女性に限らず、誰もが」と女性デーに呼びかけてしまっていることも批判があった。

まさにこの川畑記者の姿勢が、「感じのよいフェミニズム」である。
男性の権利を脅かさず、スマートに多様性を話題にしていきましょう、というメッセージに聴こえてしまう。
しかし、逆に言えば、男性の権利を脅かしてしまう記事は男性中心のメディア組織の中では握りつぶされてしまう、実際、そんな経験をしてきたのではないかとも予想できてしまう。
男性たちからの批判も怖いが、実際はフェミニズムからの批判も怖い、のだとつくづく思う。

フェミニストへの嫌悪はまだまだ根強い。
メディアにおいても、職場においても、家庭においても。
職場や家庭での性差別についてモヤモヤしたり、怒りを感じたとしても、ぐっと飲み込む女性は多いのである。
「面倒くさいやつ」「口うるさいフェミニスト」と思われるのは、得策ではないのだろう。
そうやって口を噤む女性たちをどうして批判できるだろうか。

一方で、それでも闘う女性たちが存在してきたし、存在している。
その女性たちのおかげで享受している恩恵が確かにある。
そのことを当たり前に受け取って、自分が戦わないことへの居心地の悪さ、を感じている女性もいるだろう。名誉男性的な立場として、力と地位を得てきた女性もいるだろう。
私はそれでも、多様な女性が、数が増えることが望ましいと思う。
名誉男性的な女性も増えたらいい。
それでも、不器用に叩かれながら正面から闘うフェミニストが私たちの社会にいてほしいな、と思う。そして、「いてほしいな」と思う場合は、自分がそれになればいい、とも思う。

感じ良いフェミニストは、まさにタイムリー、かつ私自身答えが出せないテーマなのである。

この記事のテーマの2つ目、「インターセクショナリティ」についてもまた次回書きたいと思います。


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