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チェンバロを全力で推す

自分で弾けもしないのに大好きな楽器というのがいくつかあるんですけど、そのなかで今回はチェンバロをどれほど好きかというのを書いてみようと思います。チェンバロ、知ってますか? 英語圏ではハープシコード、仏語圏ではクラヴサンとも言われる鍵盤楽器です。チェンバロは主に独語圏での呼びかたで、これらは基本的にはみな同じ楽器を指します。ざっくり言うと、現在のピアノの祖先にあたる楽器ですね。

ある時は、テレビでちょっと高級なホテルのスイーツを紹介するとき…またある時は、映画やゲームで王宮やお城のシーンになるとき…決まってバックに流れる、あの音。優雅で気品があって、どこか金属っぽい響きのジャラジャラ、チャラチャラ~みたいな音。誰でも一度は耳にしたことがあるはず。ここ最近でわたしが気づいた範囲だと、PS4『ドラゴンクエスト11』のメダル女学園の夜のシーンで、ドラクエ5のお城の曲(王宮のトランペット)のチェンバロアレンジが流れます。

あるいは、電子ピアノやシンセサイザーの類に触れたことのあるかたならば、だいたい収録されている音色のリストに「ハープシコード」が含まれているのをご存じの方も多いと思います。私もこの音との一番最初の出会いは、子供のころに触れたヤマハの電子ピアノ(クラビノーバ)のなかの音色のひとつとしてでした。

このように、チェンバロ(ハープシコード)の音そのものは、今やとってもポピュラーでありふれたものです。じゃあ改めてどこがそんなに良いのかっていうと…いや! そもそも良さが伝わってないんですよ! 普通に生活していて、テレビやラジオや映画やゲームで耳にするチェンバロの音の99%、少なく見積もっても9割以上は、生の…本当のチェンバロの音じゃない。

あなたはまだ本当のチェンバロの音を知らない!

どうしてそう言えるかというと、私自身が初めてチェンバロのCDを聴いたとき、そして初めてコンサートで生のチェンバロの演奏を聴いたとき、あまりの新鮮な衝撃にぶっ飛んだからです。イメージのなかにあった「チェンバロといえばああいう音ね」を易々と飛び越えて、定義を塗り替えていった。

私はねえ、正直って子供のころヤマハの電子ピアノで聴いたハープシコードの音色があんまり好きじゃなかったんです。ピアノの澄んだ音とは違って、なんだか濁った、ギターを汚くしたみたいな音だなと思って。以来、そのようなイメージしかなかったので、大人になってから古楽(バロック音楽)にハマって初めてチェンバロのCDを買ったとき、価値観が完全にひっくり返った。こんな音がする楽器だったの!? と思った。

大げさと思われるのであれば、例えばこれを聴いてみてください。2分足らずの短い曲の演奏です。できれば静かなところで、きちんとしたヘッドフォンやスピーカーなどで…。

すごくない? 演奏しているシチュエーションと、演奏者の身なりの落差はいったん置いておこう(あとでまた触れます)。曲の良し悪しが分からなくてもいい。「音」がすごい。繊細さ、瑞々しさ、歯切れの良さ、透明感、そして空気を通して伝わってくる残響! 最後に鍵盤から手を離したときのギィン…という金属的なノイズまで、ものすごく美しいと思いませんか。

ピアノのような見た目でありながら、その実、ピアノとは似ても似つかない音ですよね。強いて言うならアコースティックギターに近い。それもそのはず、発音の仕組みでいうと金属製の弦をツメで弾いて発音する、ギターと同じいわゆる「撥弦楽器」に含まれます。弦をハンマーで叩くピアノ(フォルテピアノ)とはここがもう既に違う。他にピアノとの違いで言うなら、

・音量が一定している(打鍵の強弱がない)
・ペダルがない(音を長く伸ばすことができない)
・鍵盤が二段ある(一段のものもある)
・鍵盤の白と黒が反転している(白いものもある)
・大きさが小さい

…などもあります。要するにピアノとは全然違う。替えが効かない唯一無二の音なのですよね、チェンバロの音。

で、本物はこんなに良い音なのに、どうして世に溢れる「ハープシコード」の音色とのイメージの落差がこれほどまでに大きいかというと…ポップスや劇伴やゲーム音楽で使われる同楽器の音色は、ほとんどがサンプリング音源か、電子ピアノまたはシンセサイザーの音で出している打ち込み音色なのです。生楽器に比べて平坦かつ単調で、低音域と高音域の音のキャラクターがまったく同じなので、これは聴けばすぐに分かります。

わたしは専門家ではないのでこれは想像ですが、希少な楽器ゆえにレコーディングで気軽に使えないという事情が関係しているのは間違いありません。おそらくピアノやギターやストリングスのように、ある曲のひとつのパートで使うためだけに、スタジオに楽器を用意して奏者を呼んでレコーディングするということが(普通は)できない。

なぜなら、楽器自体が希少であり、演奏家の絶対数も少ないということももちろんあるだろうし、その都度こまめの調律が必要だったり、室温や湿度の管理を徹底しなければならないみたいなそもそもの楽器の繊細さに起因する事情もあるはず。他方、電子ピアノの音色としてはハープシコードは定番だから、圧倒的に気軽に使えるわけです。

同じ打ち込み音色であっても、ピアノやストリングスがよりリアルに、生音と区別がつかないレベルの表現が可能になっていくのに対して、チェンバロのようなマイナーな楽器はいつまでもリアルにならない。ローランドのC-30のように、精巧な電子チェンバロも出てきてはいるけれど…。

現代人こそチェンバロなのではないか

ところで、わたしが初めてコンサートで生のチェンバロの音を聴いたのは10年近く前のこと。驚いたのは、音の美しさもさることながら、「音の小ささ」でした。100人がやっと入るほどの小さなホールでしたが、集中して聴かなければ聞き逃してしまうほどに音量が小さく、消えるように儚い。

そこでようやく、自分がそれまで何気なくCDで聴いていたチェンバロ…その音を「大きい音で」「いつでも好きなときに」楽しむということが、どれほど恵まれたことかということに気づきました。考えてみればこれって、現代人にこそ許された特権なんだなあと。頻繁に調律が必要で持ち運びも大変で、おまけにすごく近くまで寄らなければ聞こえない楽器を、こんなに気楽に楽しめるなんて。

それから、ヘッドフォンで街中でチェンバロの独奏曲を聴いたりするときに、チェンバロの音のピークの周波数帯ってちょっと変わっていて、日常の騒音から少しだけ浮き上がって響くんです。電車のなかで小さめの音で聴いていても、他のアコースティック楽器だと埋もれてしまうのに対して、輪郭がはっきり聞き取れる。これは発見でした。

なので、16~18世紀の楽器で、その時代の音楽をメインに楽しむにあたっても、現代人こそもっと気軽に本当のチェンバロの音にに親しんでもいいんじゃない? と思うわけです。少なくともそのための環境は揃っているわけだし、できることならもっといろんな人とこの楽しみを共有したい。

チェンバロはここから聴こう

とはいえ、じゃあどこから聴いたらいいのってことで、いくつか具体的なものを挙げてみようと思います。

まずお伝えしたいのは、チェンバロ音楽って、気取った・格式ばったものでは全然ないですよということ。式に出るような服を来てごてごて装飾がついた椅子に腰かけ、ワインを嗜みながら高級オーディオで聴くようなやつじゃない! エネルギーと生命力にあふれ、ポップで踊りだしたくなるような曲もあるし、日常に寄り添うようなカワイイさりげない歌もたくさんある。

だから、さあ聴くぞっていうんじゃなくて、あっYouTubeに3分くらいの曲ある聴いてみよって感じで聴いていいし、通勤通学中に聴いていいし、お掃除しながら聴いていいし、寝る前に聴いたってもちろんいい。

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冒頭の動画でもご紹介した裸足のチェンバロ奏者、ジャン・ロンドー(Jean Rondeau)は1991年生まれで、カジュアルにチェンバロに親しむという意味では、いま最も一押しのアーティストです。

◆ジャン・ロンドー/J.S.バッハ:チェンバロ協奏曲 第1番 BWV 1052 第一楽章

チェンバロ協奏曲は、それまでオーケストラのなかでは通奏低音楽器として、どちらかというと縁の下の力持ち的存在であったチェンバロを、独奏楽器として大胆にフィーチャーした曲です(いまでは「キーボード・コンチェルト」としてチェンバロの代わりにピアノで演奏されることも多い)。

ジャン・ロンドーはここでもラフな格好で弾いていますが、演奏はめちゃくちゃ端正で表現力も素晴らしく、初めて聴くバッハとしてもおすすめできます。何より生バンドとしてのグルーヴがある。冒頭のシリアスな主題が何度も繰り返し変化して現れるのですが、チェンバロの聴きどころとしては、3分57秒くらいからの流れるような速弾きソロ、5分39秒くらいからのソロからのテンションを引っ張ってクライマックスに突入するところが、ぞわぞわするほどチョーカッコイイ。

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◆曽根麻矢子/ジャン=フィリップ・ラモー:クラヴサン曲集より『一つ目巨人』

チェンバロ独奏の熱い世界を垣間見れるのが、曽根麻矢子さんの弾くラモー『一つ目巨人(Les Cyclopes)』です。わたしはチェンバロを聴き始めて最初のころに、この動画を見て完全にハマってしまった。曲のカッコよさもさることながら、曽根さんの演奏には取り憑かれたように鬼気迫る美しさがある。

曽根麻矢子さんは日本を代表するチェンバロ奏者のひとりで、国内で唯一のチェンバロ音楽祭「チェンバロ・フェスティバルin東京」の芸術監督も務めておられます。わたしも何度かコンサートに行きました。

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◆ピエール・アンタイ/J.S.バッハ:イギリス組曲 第2番 BWV 807

もし腰を落ち着けてなにかひとつ、じっくりチェンバロ独奏曲を聴いてみたいという方がいれば、フランス古楽界の大家ピエール・アンタイ(Pierre Hantaï)さんの弾くイギリス組曲第2番の録音がご本人のYouTubeアカウントで公開されていて、かなりおすすめです。

動画は22分ほどですが、全体は7曲+冒頭の1曲の短い曲の組み合わせになっています。6分10秒くらいまでの少し長めのプレリュードに続いて、様々な形式の舞曲…言ってみればダンスミュージックが続いていくので、わたしは現代の音楽でたとえるならDJミックスのようなものだと思っています。

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◆スコット・ロス/ドメニコ・スカルラッティ:『ソナタ選集』

安価に手に入る間違いない名盤としては、エラートから出ているスコット・ロス(Scott Ross)のスカルラッティのベスト盤がお薦めです。スコット・ロスは1989年に38歳の若さで亡くなったチェンバロ奏者で、その短い生涯のなかでドメニコ・スカルラッティの全555曲のソナタの全曲録音を史上初めて達成したほか、他にも多くの決定版と言える録音を残しています。

スカルラッティのソナタのいくつかはマルタ・アルゲリッチなど世界的ピアニストのレパートリーとしても有名ですが、チェンバロで聴くのはまた全然違う体験のように感じます。K.27はとりわけロマンチックで大好きな曲。

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◆鈴木優人、鈴木雅明、バッハ・コレギウム・ジャパン/J.S.バッハ:『2台のチェンバロのための協奏曲集』

比較的最近の作品からだと、これが良かったです。古楽オーケストラ、バッハ・コレギウム・ジャパンを率いる鈴木雅明・優人の親子2代チェンバロによる、2台のチェンバロのための協奏曲。バッハは、前述したチェンバロ協奏曲の他にも、2台、3台、4台のチェンバロのための協奏曲を残している。

ここに収録されている「管弦楽組曲 第1番 BWV 1066」の2台チェンバロ用編曲はめちゃくちゃ斬新で、他に例のない試み。チェンバロの音の良さを満喫するなら、まず間違いない一枚です。Apple MusicやGoogle Play Musicなどの定額配信サービスにも入っているようなので、すぐ聴けるかたはぜひ!

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いろいろ書きましたが、わたしもまだチェンバロという楽器に憧れるようになったのはここ10年くらいの話だし、本物のチェンバロを直に触ったことがあるわけでもなんでもないです。この楽器が好きだってことをただ書きたいなと思って書きました。

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