5月18日(月)

※なんだかぐちゃぐちゃです

昨日、早起きして課題の続きをやろうと思ったのに、大して早起きできず、結局課題も間に合わずに、半分ぐらいやったところで提出した。
これまでまともに提出できた課題はコンピュータぐらいだ。
こんなのでいいのか自分。
情けなくて自己嫌悪になる。
勉強は大好きなのに、溜まった課題がどうしても片付かない。
彼と本屋に行って帰る電車の中でTwitterを見ると、こんなツイートが目に止まった。

昔ある本で読んだ、
「一回こころが壊れると、ある程度良くなっても、もう全力では頑張れなくなる。7割位までは戻っても、絶対10割にならない」
って話、すごくしっくり来た。
なんでも溌剌とやってた、意識高い系学生だった頃の自分には二度と戻れない。どっちが幸せだったのかはいまだに判らない。
(@set_the_tone99 on Twitter)

私もその事実を実感して、何度も絶望するのだ。
この先何十年も頑張れない人間のまま生きていくしかない。
もう二度とあの頃のように頑張ることはできない。
それでいったい何を得られる?
生きている意味あるのか?
この人も考えているように、私も、もし10割の力で頑張り続けることができたら、と思うのだ。
特に、頑張れる人を見たときに。
世間では、頑張っている人が評価される。
頑張っていない人間は、怠け者のレッテルを貼られる。
どんなに、本当はもっと頑張りたいと叫んだって届かない。
実際に頑張れなきゃ意味がないのだ。
病気(だと思うこと自体甘えかもしれないが)を経験して、私は頑張る力を失ってしまった。
他にもいろんなものを失った。
病気になって得るものなんて一つもなかった、むしろ失ったものばかりだと言った私に、そりゃ失ったものしかないでしょ、だからこの先再発しないようにしていくしかないでしょと返した、まだ友達だった頃の彼の言葉は、私を大きく変える契機となって、今も心に残っている。
大抵の人が、苦しみを経験した人は強くなれるとか、優しくなれるとか言うけれど、実際は頑張れなくなるし、心がひねくれる。
もちろん善意で言ってくれているのはわかるのだが。
部屋に帰ってきて、課題の量に圧倒され、軽々しく死にたいと思ってしまう。
それは、病気が苦しいときの死にたいとは別だが、実際に死にたいのは同じだ。
課題を完璧にできなくても生きていていいこともわかるし、良い成績を取れなくても破滅ではないこともわかるのだが、とにかく嫌なのだ。
こんなに好きなものがあって、それにしがみついて生きているのに、それさえも完璧にできないのが嫌なのだ。
浪人してた頃、決めたスケジュールを守り通さなければと、動かない身体に鞭打って突っ走り続けた日々は、目標よりも死に向かって走っていただけだったが、その痛みは生きている実感を与えてくれていたようにも感じる。
夢を叶えたいけど、そんな明るい未来なんて見えなくて、死にそうになるけど、死ぬのも怖くて。
生きている実感を求めて、ない気力を振り絞るために、努力しない自分を罰するために、死のイメージを振り払うために、リストカットを半ば強迫的に繰り返して走り続け、力尽きた。
もうあの頃には戻れない。
もう頑張れない人間になってしまった。
それでも生きる価値はあるのか?

彼と一緒に履修している西洋現代史の課題を見せ合った。
あなたの考える西洋現代史を学ぶ意味を述べよという課題だ。
見せ合うことで、考えが深まり、楽しかったので、これからもやっていきたいねということになった。
このテーマについて、彼の考えも参考にしてまとめたものを記事にする予定だ。

課題に追われているのに明日は2コマバイトがある。
どうにか頑張っていかなければ。

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