「叩き」は自由落下ではない
斉藤秀雄の「指揮法教程」は、おそらく日本で最も重要と考えられている指揮の教科書ではないかと思う。小澤征爾氏や秋山和慶氏など、多くの名指揮者を育てた桐朋学園の斎藤秀雄氏が書いたものだからだ。
私がこの本と出会ったのが大学オーケストラだ。指揮者に選ばれた途端に、歴代の指揮者の先輩から「この本で勉強しろ」と言われた。初めの1年はひたすら「叩き」の練習をしたものだ。この「叩き」、理論的には、腕を自由落下運動させ、打点で瞬間的に跳ね上げること。いわゆる重力による等加速度運動である。これが非常に難しい。
しかし「叩き」がすべての基礎。これができないと、しゃくいや平均運動など、他の技法に進んではならないと言われたものだ。リハーサル中に「指揮がわからない」と言われると、「基礎(つまり叩き)ができていないからだ」とも言われた。
なぜ「叩き」が難しいのか。「余分な力」が少しでも入っていると、「等加速度運動」にならないからだ。しかしこれを物理学的、運動力学的に考えると大きな矛盾に気づく。
矛盾その1: 加速度が重力加速度という定数であれば、振る大きさ(上下振幅)はテンポの関数になる。しかし実際は、強弱(f ~ p)を振る大きさ(上下振幅)で示すために、加速度は一定とはならない。
速いテンポでは上行も下行も重力よりも加速する力を加えなければならない。逆にゆっくりのテンポではブレーキをかける力が必要となる(詳細は下記)。
しかし教科書的には「力を抜け」ということになる。
矛盾その2: 拍と拍の間で腕の力が完全に抜けていれば、肩と肘の二か所がピボットとなる。したがって横から見ると、手は真下には落下せず、体幹に寄ってくる。しかも自由落下だと、肘でまず「拍」が表れ、そのあと一瞬ずれて「手」に拍が表れる。二つの打点がずれて見えることになる。
横から見てまっすぐに手が上下運動し、肘で点を出さないためには、実は力を加えて調整しなければならない。
これも教科書的には「力が入っているから、手が真っ直ぐに落下せず、肘と手の打点がずれる」という指摘になる。
このあたりが、指揮者を目指す人の最初の壁として立ちはだかるのではないだろうか。「叩き」をマスターしようとする初心者が、まじめに練習すればするほど陥りやすい罠とも言える。
自由落下の高さとテンポの関係を実際に計算してみよう。まず、重力加速度9.8 m/s2の場合、テンポ120(Allegro)だと高さ31cm、テンポ80だと69cm、テンポ60(Andante)だと123cmとなってしまう。私の身長ではヘソから肩までが約40cmであり、ヘソから頭のてっぺんまでが約75cmであるから、69cmはf ~ff に見えることになってしまう。
このグラフから逆に、効果的な「叩き」の練習方法がわかる。上記グラフの加速度9.8の曲線から、ビートの高さとテンポが読み取れる。目標のテンポでは高さが何cmになるべきなのか、壁に目印をつけて、それを見ながら目標のテンポで「叩き」の練習をすればいいわけだ。余分な力は抜くが、必要なコントロールをしなければならないのが「叩き」だということを肝に銘じて。
ちなみに、私が個人的にお勧めする指揮法の教科書は、Max RudolfのThe Grammar of Conductingだ。
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