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自作チョコについて

バレンタインデーが近い。好意を寄せている相手へ自作チョコをつくる方もいるかもしれない。
そこで僕はふとある疑問が浮かんだ。
自作チョコというのはどこからが自作と言えるのだろうか。

…...いや、「自作チョコはカカオから作れよ~~」というチンケな話をしたいわけではない。そういう話はTwitterによくいる、つまらない有象無象に任せればよい。

僕の言いたいのは「どこまでが自作チョコとして許容されるのか」ということだ。溶かして型に入れる、これは自作チョコと言ってだろう。しかしただ板チョコを二つに割っただけのモノ、これは自作チョコとは普通言わない。
どちらも加工を伴っているのにもかかわらず、我々は自作と非自作を区別できるのである。どこまで加工することが自作チョコを自作たらしめるのだろうか?

このことについて友人と議論し、まず最初に考えられたのが「状態変化」である。固体のチョコを固体以外にして、また固体に戻す一連の操作が自作チョコに必須であるということだ。
例えば型に入れて作った自作チョコは固体を液体に、液体を固体にするという状態変化が伴う。かたや二つに割ったチョコ、これは状態変化を伴っていない。故に自作ではない、ということである。誠に科学的だ。

しかしながらこれには反例がある。スーパーの製菓コーナーの物品やクリーム等で飾りつけされた板チョコ、これは十分に自作ではないだろうか。これは化学的状態変化を起こさずにチョコを自作化させる代表的な手続きだ。これを自作という以上、我々は「状態変化」以外の要素でも自作・非自作を判別していることになる。

もう一つの説は「手間」である。なるほど確かに溶かして型に入れたチョコは明らかに二つに割ったチョコレートより手間がかかっている。飾りつけも「手間のかかっている加工」と言えるだろう。何らかしらの敷居を超えた手間を加えた時点でそれは自作チョコと化すというわけである。
状態変化説より曖昧だが、それゆえ広範囲をカバーできているように見える。

だがこれにも反例がある。完膚なきまでに粉状にしたチョコ。これはかなりの手間がかかっているに違いないが、我々はこれを普通自作チョコとは言わない。粉チョコを手渡されてもあまり嬉しくないだろう。

一体何が自作チョコを自作たらしめるのか。これは意外にも難問だったのである。


だがこの問題を僕の尊敬すべき友人に問うたところ、すぐに明快な答えが返ってきた。


それは気持ちの問題なのだ。


完膚なきまで粉状にしたチョコやただ二つに折ったチョコ、これは「自作チョコである」と思いながら作れば自作チョコなのだ、と彼は言う。便器を美術館に飾ると芸術品になるように、水音をコンサート会場で鳴らせば音楽になるように。
完膚なきまで粉状にしたチョコやただ二つに折ったチョコを自作チョコであると認識していないのは、それを自作と呼んだ人間をお前が見てこなかったからだ。しかし製作者がそう言えば、それは自作チョコになる。究極的には一分前にコンビニで買ったチョコレートを自作チョコと言い張ることもできるのだ、と。

同じ作品であっても、意図が違えば評価も違う
現代芸術では自明のものとして扱われるこの事実を、彼に諭されるまで僕はすっかり忘れていた。自作チョコとは、現代アートなのである。



仮にバレンタインでチョコを渡すとき「これって自作チョコなの?」と言われたら、こう言い返せば良い。

「私が自作チョコと言ってるんだから自作チョコなんです~~!!」

現代芸術に裏打ちされた理論と萌えの効果が相まって、そのチョコレートは素晴らしい結末をあなたにもたらしてくれるに違いない。


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