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【741回】2023年読書10冊 後編

前編の続き、残り5冊


⑥青木省三「ぼくらの心に灯ともるとき」(創元社、2022年)

街の中に、自分の居る場所があるというのは、生きていくにはとても大切なことだ。もちろん何かをしてもいいのだけど、ただ座っているだけでもいい。ふと話をしてもいいし、じっと黙ったままでいてもいい。自分はここにいてもいいのだと思える場所。そんな居場所が人には要る。

青木省三「ぼくらの心に灯ともるとき」(p170)

青木省三は精神科医であり、専門書から「ちくまプリマー新書」など読みやすい本も出版されている。そして、「ぼくらのー」はなんと、小説なのだ。上記引用文は著者の「おわりに」に書かれたものであり、小説の目的となっている。
12月末、北海道新聞にて3回にわたり、<さまよう若者 消えた「たまり場」>という連載が掲載された。

札幌駅前の広場、札幌市営地下鉄大通駅の広場を使用禁止にされた若者のその後を描く。「何かをする、ただ座る」そのような居場所にはおそらくもう1つ条件がある気がする。それは「自分以外の誰かがいる」という条件だ。「居場所」=「たまり場」なのだ。「たまり」は「溜まり」と書かれるかもしれない。ところが「貯まり」と書いたらどうだろう。生きる力が、人とつながる力が、何かを作り出す力が「貯まる」場所。いいな、「貯まり場」
居場所の名前にするには、重い名前だから、気軽な名称がいいな。
略して「タマ(貯間)」かな。猫を連れて来ないとな。


⑦重松清「青い鳥」(新潮文庫、2010年 作品自体は2007年)

でもなあ、ひとりぼっちが二人いれば、それはもう、ひとりぼっちじゃないんじゃないか、って先生は思うんだよなあ。

重松清「青い鳥」(p364)

「きっ、きっ、来てくれた」「ざっざざざざっ、雑用」
特定の音で発音が詰まってしまう。吃音がある先生が様々な中学校に現れては、生徒と出会って去っていく。連作短編小説。
2023年に出会った本は630冊。「青い鳥」は2023年に出会えてよかった本の第1位だ。
何のために先生をやっているのか。村内先生は答えを持っている。答えではなく意思を持っている。
僕はどうなんだろう。僕の意思は、先生である必要があるのか。
村内先生は、よく「間に合った」と言う。その意味は、ここでは書かない。僕はこの「間に合った」という5文字をずっと眺めていたのだ。これから先の人生で、子どもたちに出会う仕事を続けていたらどうだろう。続いていれば子どもたちに出会うとしたら、僕との出会いで、間に合う何かがあるのかもしれない、と。
すぐ都合よく、物語の影響を受けるよなあ。

この本に出会えてよかった。ずっと本棚で待っていてくれたんだ。間に合ったよ。


⑧脇中起余子「聴覚障害教育 これまでとこれから」(北大路書房、2009年)

現実には、補聴器も進歩しており、無理なく聴覚活用できる生徒も増えています。「聴者」「難聴者」「聾者」は連続的なものであり、適用する教育方法も連続的なものであるほうが無理がないでしょう。
(中略)
日本語の話しことば(聴覚活用や読話、発声による会話)を使わずに、文字との接触だけで、書記日本語を十分に獲得できるか否かに対する見解の相違が、聴覚口話法に対する評価の違いにつながっているようにも思われます。

脇中起余子「聴覚障害教育 これまでとこれから」(p154)

相手の口の形を見て、相手が何を話しているか読み取る。
聞こえないのに、自分の口の形を練習して、発音する。
いや、日本手話で教育を進めなければいけない。日本手話での学習保障が大切だ。
聴覚障害教育の現場や聴覚障害当事者の本を読めば、混乱する。それは何か「絶対とする支援の立ち位置」を求めてしまう自分の癖が影響している。「絶対」という方法はない。「絶対」なのは子どもが目の前にいるだけだ。
聴覚口話法じゃないといけない。日本手話を使わないといけない。
などという「絶対」の枠から、距離を置かせてくれたのが、脇中起余子の本であった。著者は聴覚障害がある。自身の経験を元に、聴覚口話法、手話法を公平な立場で、本を書かれている。問題提起もされている。日本語で書く。文章を書くことについて。日本手話のみの教育ではどのように実践されていくか。実践研究を見ていく必要がある。
ああ、救われた気がする。手話ができない自分でも、聴覚障害教育に携わってもいいのではないか、という自分を責める気持ちが緩んだ。

末尾には「23.11.26」読了日の横に、メモがある。
「日本手話一辺倒。聾者文化尊重。そちらに偏りすぎる場合、怖れがあった。日本手話絶対というのではなく、手話と日本語の音韻認識理解の共同。だから発音指導、口形指導も大切」

いや、もとより、「やってみたい」と思い、歩み続けていけば、視覚障害だろうと聴覚障害だろうと、どんな子どもと向き合う機会は訪れるかもしれない。
「やってみたい」かどうかなんだろう。

何度も開いて確認できる、基盤となる本に出会えた。そんな本を見つけ出せる自分に乾杯。


⑨益田ミリ「ツユクサナツコの一生」(新潮社、2023年)

そんでも、
読む前と
読んだあとでは 
わたしの世界の
質量はちょっと
違う気がする
ゼロではないな

益田ミリ「ツユクサナツコの一生」(p253)

益田ミリの本は「幻冬舎文庫」のイメージがあった。本棚を確認したら、文庫ばっかり14冊も出てきた。今年、鬱病で横たわっていた時がある。そんな時でも、本だけは読みたい。先崎学や細川貂々、水島広子といった鬱病当事者や関係者が書いた本も読んだ。鬱病当事者でも関係者でもない、益田ミリの本に手が届いた理由は2つ。「読みやすい」そして「なんか、まあいいやと思わせてくれる」からである。読んでいるときは「まあいいや」とは思えない鬱状態の強い時期だったのかもしれない。今、開いたら、「人生、まあ、色々あるわ、まあいいや」と思えますね。

ここまで、全く「ツユクサナツコ」に触れなかった。僕は本を買う時、漫画で1500円を超えるようなものは、買う勇気が出ない、つまり、ほとんどそういう漫画は買わない。「ツユクサナツコ」は税込1980円!立ち読みもせず、そのまま書店のレジに持っていって、しかも帰りの電車の中で読み始めてしまった。
「これは、お前、買わないといけないんだよ」という何かのエネルギーが発生したとしか思えない。電車の中で読み進めてしまった僕は、終盤で何度も何度も本を見返し、最後まで読み進められなかったのだと思う。
「マジか!益田ミリ!!…」「人生って何なの…」

ナツコに出会い、ナツコの本を読んだ人物が「質量が変わった」と言う。
ナツコに出会わせてくれた、益田ミリの本を読んだ僕も、変わった。読む前と読んだ後で、何も変わらないわけがない。
プラスかマイナスか。何かが起きているはずだ。

ありがとう、益田ミリ!
今年出会った漫画では、No.1だ!


⑩手島圭三郎「おおはくちょうのそら」(絵本塾出版、2015年)

こどもが びょうきで、とぶことが できないのです。

最後は絵本を紹介する。「おおはくちょうのそら」は、春の訪れとともに、北国へ戻る白鳥の家族を描いた物語だ。手島圭三郎の絵本は、すべて「版画」である。「これ、版画なの!?」という驚きが、次々と手島圭三郎の絵本を手にする原動力となった。白鳥だけではなく、キツネやフクロウ、リスやヒグマまで、北海道に住んでいる動物をもとにした作品が続く。
お気に入りは「おおはくちょうのそら」で、病気の子どもがどうなるのか、家族がどうなるのか、まず読み通した。次に、版画をじっくり眺めた。
僕が生きている同じ北海道で、この絵に出てくるような世界があるのだ。見えていないだけなのだ。


おわりに

力を込めて作り続ける意思。それを維持できる基盤とは何なのだろう。

2023年の読書を通してたどり着いたのは、「情熱」という言葉である。
今回、示した10冊だって、本を書く情熱から生まれたものだと思う。
情熱とは、何かをやりたいという意思だ。この何かに自分も携わりたいのだ、何かを自分こそ作りたいのだ、何かを、自分こそ!、やってみたいのだ。

2024年は、情熱とどのように付き合っていくのかという1年になるのではなかろうか。
苦しい1年間だった。
大晦日を迎えたんだ。
体を起こしたまま、3時間。前後編合わせて、5700字以上の文字を打ち込んだ。

作りたいから作ったのだ。夢中だった。楽しかった。
さあ、年越しへ向けて、ゆっくり過ごそう。
「ちいかわ」でも読むかなあ。

2023年、noteを見てくださりありがとうございました。