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【740回】2023年読書10冊 前編

はじめに

2023年に読んだ本の中から、10冊を紹介する。
大晦日の今日、たった今、本を開いて目に入った言葉とともに書き残しておく。直感である。それこそ、大晦日の僕が求めた言葉である。
いつも思う。読書は、その時その時に必要な本が用意されていると。
20年以上本を読み続けてきた。
「この本は今うまく読めない」「昨日読もうと全く思わなかった本を、今日夢中で読んでいるな」
自分の直感に従って読んでいいのだ。それでいいんだ。


①村上春樹「街とその不確かな壁」(新潮社、2023年)

自分が自分の本体であれ、あるいは影であれ。どちらであったとしても、今こうしてここにあるぼくが、ぼくの捉えているぼくが、すなわちぼくなのです。それ以上のことはわかりません。

村上春樹「街とその不確かな壁」(p646)

仕事も生活も、崖を転げる落ちるようにうまくいかなくなる。村上春樹の最新作が発売されたのは4月だ。3000円近い本を無理やり購入した。どうしても読んだほうがいいと思ったからだ。僕は読み終えた本の末尾に、読了日とメモを残す。
「23.7.3 散歩をせず、読み切ると決めた日の午後に。強い不安が及ぼす不適応、癖になった行動を和らげる練習をしながら、読了」
気持ちがフラットに戻ってきた今、読んでみたらきっと、違う気もちがあるだろう。本とはその時期その時期で感じ取るものが異なってよいのだから。


②村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)(下)」(新潮文庫、2010年 作品自体は1985年)

「心は使うものじゃないよ」と僕は言った。「心というものはただそこにあるものなんだ。風と同じさ。君はその動きを感じるだけでいいんだよ」

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(上)(新潮文庫、p124)

「俺は迷ったときはいつも鳥を見ているんだ」と影は言った。

村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(下)(新潮文庫、p79)

再び村上春樹。「街とその不確かな壁」を読み終えて2週間後に読み始めた。表紙を開けばいきなり地図。壁に囲まれた街。おや、「街と不確かな壁」と世界観が…そっくりだ!「世界の終りー」は1985年。もしや世の中の多くの読者は、「世界の終りー」から「街とー」に続けて読んだのかもしれない。僕は、遡って読んだわけだ。7月20日に上巻を開き、8月13日に下巻を閉じた。末尾には体の感覚が鈍い、不調や眠気を訴えているメモが残されていた。
いよいよ新潮社が発行する村上春樹の長編小説は「ねじまき鳥クロニクル」を残すのみとなった。結局、今年は開かなかったな。


③坂口恭平「苦しい時は電話して」(講談社現代新書、2020年)

苦しむことができる力は、言われた仕事をただそつなくこなす作業には向いてないけど、ここにないものを生み出す時には逆にとても大きな力になります。

坂口恭平「苦しい時は電話して」(p159)

辛い、苦しい、消えたいときに手を伸ばせば、坂口恭平がいた。「いのっちの電話」として、電話番号を公開し、多様に苦しむ人とつながっている。「自殺を、この国からなくす」という強い思いが、彼の行動を保持している。坂口恭平は自身が双極性障害であるため、強い鬱の時期があるらしい。弱さを公開しているからこそ、近づきたくなるのだろうか。彼に電話する決断はしなかったな。
10月に2回立て続けに読んだ。末尾には「チーズケーキとメロンパンが美味しかった」とある。美味しかったのか。それはよかったな、僕よ。


④坂口恭平「躁鬱大学」(新潮文庫、2023年 作品自体は2021年)

それでも会社勤めをやめられない人はいるでしょう。その方はもう、鬱にならないということは諦めて、鬱にはなるけど、どうやってやり過ごすかってことのほうに集中しましょう。

坂口恭平「躁鬱大学」(p270)

「躁鬱人」という言葉を用いて、躁鬱は体質なんだよ!から始まる。頭の中に浮かんだのは、原始時代、躁鬱体質を抱える族があって、それらが現代社会では、それぞれの国や地域に散らばってしまったのだという想像である。僕もその一員なのだろうか。眼の前に青い光が明滅するように見えて、実はそれは一部の人にしか見えない。光に寄せられていったら、複数の人がいる。みな躁鬱人。その光は、躁鬱の神によるサインであり、蜂起せよの合図だった。作れ、何かを!という。
また変な想像をした。坂口恭平に触れると、何かを作りたくなる。
末尾には「鬱はついてまわるのだろうなあ」と書かれていた。もう、僕の人生はそういうこと。いいんだよ。それで。


⑤平田オリザ「学びのきほん ともに生きるための演劇」(NHK出版、2022年)

異なる価値観と出会ったときに、物おじせず、卑屈にも尊大にもならず、自分の価値観を提示し、相手と共有できる部分を見つけ出す「対話」というプロセスを楽しむこと。そこに自分自身に関する新しい発見や喜びがあることを、体験を通して少しずつ味わいながら、「対話の体力」を鍛えていける。それが私の考える演劇の力です。

平田オリザ「学びのきほん ともに生きるための演劇」(p76)

演劇教育という言葉がある。ちょいと僕は気にしているんですよね。
平野啓一郎は自分の中にはいくつもの自分がいて、家庭や職場、相手によって表面に出す自分を切り替えている、いわゆる「分人主義」を唱えている。演劇は、自分以外のキャラクターを演じる。誰かを演じる体験は、それこそ相手を想像する力を養うだろう。相手の価値観と自分の価値観をすり合わせる。僕という中に、いくつもの人を想像する。その材料や、考える幅を広げる。僕の分人も、パワーアップするんじゃないのかな。
この本はKindleで読んだので、末尾のメモはなし。

後編へ続く