見出し画像

「ゆるさ」が、社会をつくる

Twitter上で「ゆるさ」について盛り上がってしまった。

「ゆるい」とは何だろうか。「いい加減」とは違う。さまざまな制約がなく、リラックスした状態がそれだろうと直観的には思う。であるならば、(少なくとも、ぼくにとって)最も創造的なのは「ゆるい」状態だ。良い雰囲気のディスカッションやハッカソン、講評会、質疑応答の盛り上がる口頭発表、ちょっと意外かもしれないが、SOSを受けた時の現場作業なんかも頭に浮かぶ。そう言った場所では、興味深いテーマやお題が行き交う。それに対して、感覚と論理を総動員して、ベストと思える返答(それは言葉な場合も、行動な場合もある。返答としての「行動」だ)をつくりだす。とてもクリエイティブでスリリングな作業だ。スポーツにも似たものを感じる。

ぼくが2016年から実施しているCEL(Cultural Entrepurenuer Lab)が、その象徴だと思う。集まる人たちは、ひたちなか市の行政職員、商工会議所、民間企業、地域住民、大学教員、学生、そしてアーティスト。まちに関わるいろいろなことを、ぐだぐだと話し合う。ぐだぐだ話し合うんだけど、構成員が知識を出し合うので割と成熟した知見が生まれたりする。

画像1

上記は9月のCELの写真。学生の割合が多い会。この後、プロジェクタ投影できる場所ないので、天井にプロジェクションしてミーティングは進められた。

とはいえ今年一年を振り返ると、全体としては「ゆるさ」が発揮できなかったな、と思う。今年は特にリモートワークで本当に苦労したのだが、その理由の一つに「ゆるさは距離を超えにくい」というのがあると気づいた。リモートだと、それがふざけているのか、真剣なのか、反発しているのか、開き直っているのか、が見えないのだ。それゆえ、リモートでは「ゆるい」アイデアは受け入れられにくいのだ。もちろん、価値観の近い人とは大丈夫だし、そうじゃない人ともやりようはあると思うが、「ゆるさ」の特性、そして自分の強みを改めて知った一年だった。

あと真面目な組織でも「ゆるさ」というのは発揮しにくいものだと思う。今年、ぼくも「社会の厳格さを教えるのが大学教員としての勤めです」という意見を聞いた(ぼくは無理)。あとは行政。市民や議員、国や広域自治体、関連団体、時には首長と調整が必要になる。「ゆるさ」は付け込む「隙」になるだろう。だから創造性を犠牲にしてでも、多方面に忖度し、違う部署には首を突っ込まず、先例を踏襲して安定した結果を出す体質になることは無理もないことだ。だからこそ、その中で「ゆるさ」をもって、ぼくとお付き合いしてくれる行政関係者には頭が上がらない。

一方で、アートにはある種の「ゆるさ」がある。それはアーティストの人格が「ゆるい」とか、アート作品としての作風が「ゆるい」という訳ではない。アートは、本質的に欠けている部分があることを諦めつつ、創造的であり得る行為ということだ。それ故にアートは「厳しい価値観」を持つコミュニティでは「計画できないモノゴト」「隙のあるモノゴト」として、社会の構成要素からは外されてきた。一方で、その「欠けている部分」を一切認めずにアートを利用している事例も増えているが、それはアートの本質的な価値を認めた訳ではない。意味わからない人が多いかもしれない、炎上するかもしれない、誰かの気持ちを害するかもしれない、社会にすぐ役に立たないかもしれない、「言っちゃいけないこと」を言うかもしれない、偏っているかもしれない、こういう要素を許しつつアートは生まれている。だからこそ、アートは「ゆるい」ものであり、「ゆるい」からこそ新しい社会をつくり、さらに言えば、ぼくがアートを通した活動にこだわるのだと、思う。

写真は下北沢。独特の文化を有する街であり、ほぼ毎朝、酔いつぶれて寝ている人がいる「ゆるい」街。下北沢に住んでいたことのある、よしもとばばなさんのエッセイはその「ゆるさ」が表現されている。こういう「ゆるい」街の方が、高級住宅街よりもうつ病にならないと、産業医の記事で読んだことがある。「これで良いんだ」と思えるかららしい。そういう人でも、ありたい。


頂いた支援は、地方の芸術祭や文化事業を応援するため費用に全額使わせていただきます。「文化芸術×地域」の未来を一緒に作りましょう!