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なぜ十戒が大切なのか

はじめに

律法にはいくつかの種類があります。キリストを予表するもの、違反を指し示すもの、民を異邦人から隔てるもの──

その中でも、特別な律法があります。ただそれだけが石の板に書かれ、契約の箱に入れられ、聖所に運び込まれました。

そう、十戒じっかいです。

列王記 第一
8:9 箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。

なぜ十戒じっかい特別扱いされるのでしょうか。

そこには、私たちが絶対に知っておかなければならない事実があるのです。

十戒じっかいとは何か

その文面は、出エジプト記20章や、申命記5章に書かれています。

出エジプト記
20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。
20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
20:7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
20:8 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
20:9 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。
20:10 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。
20:11 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
20:12 あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
20:13 あなたは殺してはならない。
20:14 あなたは姦淫してはならない。
20:15 あなたは盗んではならない。
20:16 あなたは隣人について、偽証してはならない。
20:17 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

これが十戒じっかいです。

要約すると、次のようになります。

  1. 神のほかに神があってはならない。

  2. 偶像を造ってはならない。

  3. 神の名をみだりに唱えてはならない。

  4. 安息日を聖とせよ。

  5. 父と母を敬え。

  6. 殺人をしてはならない。

  7. 姦淫かんいんをしてはならない。

  8. 盗んではならない。

  9. 偽証してはならない。

  10. 隣人のものをむさぼってはならない。

これは、神の義を指し示し、罪とは何であるかを人に教えるものです。

そして、絶対に勘違いしてはならないことがあります。

神の義は、モーセの時代に考え出されたものではないということです。

世の初めから殺人は罪であり、姦淫かんいんは罪でした。創造のときから安息日は聖別され、偶像礼拝は忌むべきものとされていました。

神の義は、けっして変わることはないのです。

世の初めからあった律法

十戒じっかいは世の初めからあった神の律法です。それを、しゅはモーセの時代に石の板に書き記されたのです。

世の初めからあったということは、すべての人類を対象にしているということです。

これが、十戒じっかいが特別な律法である理由の一つです。
十戒じっかい世の初めからあり、この律法に違反することはすべての人にとって罪なのです。

ヨハネの手紙 第一
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

モーセより前の時代には罪がなかったのではありません。
たとえこの律法を知らなかったとしても、罪を犯した者は滅びるのだと聖書は教えます。

ローマ人への手紙
2:12 そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。

この律法は、良心として人の心に与えられているからです。

ローマ人への手紙
2:14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
2:15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。

人が、生まれながらに殺人や姦淫かんいんを悪いものだと感じるのは、このためです。
(とはいえ、この感覚は今やサタンによってずたずたに破壊されています)

あとから加えられた律法

世の初めからあった律法に対し、あとから加えられた律法もあります。

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

モーセ律法がそうです。

モーセ律法と十戒じっかいの違い

マタイの福音書
5:31 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。

本来、離婚することは姦淫かんいんの罪になるとイエス様は言われました。

それでも、イスラエルがかたくなに離婚を希望したので、モーセ律法では以下のようにされたのです。

申命記
24:1 人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。

ほかにも、あとから加えられたものとして、こんなものもあります。

出エジプト記
35:1 モーセはイスラエルの人々の全会衆を集めて言った、「これは主が行えと命じられた言葉である。
35:2 六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない
35:3 安息日にはあなたがたのすまいのどこでも火をたいてはならない」。

これは民族としてでなくては、けっして守れないものです。
(安息日には未信者に発電所で火をかせ、信者はその恩恵にあずかればいいというのではありません!)

安息日違反者を死刑にしたり、安息日に火をかないことは、あとから加えられた律法であることに注意してください。

約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの

モーセ律法は「約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの」とはっきり書かれています。

モーセ律法の主な役割は、御子みこのことを予表し、神の民を異邦人の習慣から隔てることでした。

それで、御子みこが来て、異邦人にも救いが及んだとき、生けにえは廃され、隔ての壁は役割を終えたのです。

エペソ人への手紙
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

十戒じっかいも終わったのか

モーセ律法と十戒じっかいを区別せず、十戒じっかいまで終わったと教える人たちがいます。

しかし、イエス様はそれを完全に否定しています。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

天地が滅び行くまでは、この律法は一点、一画も廃れません。
殺してよい、姦淫かんいんしてよい、神の御名をみだりに唱えてよい、そんな時代は来ないのです。

逆に、こう教える人たちもいます。「一点、一画も廃れないのは、モーセ律法も同じだ」

しかし、一点、一画とは、その文字の一部さえ廃されないという意味です。
生けにえの廃されたモーセ律法がこれに当てはまると考えるのは難しいと思います。

十戒じっかいは天地が滅び行くまでなくなりません。これもまた、十戒じっかいが特別な律法である理由の一つです。

聖書のあちこちに書かれた十戒じっかい

石の板に書かれたものだけが十戒じっかいのすべてではありません。

十戒じっかいは聖書のあちこちに書かれています。

申命記
27:15 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメ ンと言わなければならない。
27:16 『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:17 『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:18 『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:19 『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:20 『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:21 『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:22 『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:23 『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:24 『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:25 『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。
27:26 『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。

これも十戒じっかいです。十戒じっかいの適用例を具体的に述べているのです。

レビ記
19:17 あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。
19:18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。

これも十戒じっかいです。十戒じっかいを要約しているのです。
これが十戒じっかいの要約であることは、新約聖書で何度も語られています。

ローマ人への手紙
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

ガラテヤ人への手紙
5:14 律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。

マタイの福音書
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

十戒じっかいは(また聖書全体も)、神を愛することと、隣人を愛することに要約されるのです。

心の中においても守られるべき十戒じっかい

十戒じっかいは表面的なものではなく、心においてこそ守られるべきものだと教えられています。

マタイの福音書
5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

ヨハネの福音書
7:19 モーセはあなたがたに律法(十戒じっかい)を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか」。

ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。

この基準に従わないなら、けっして天国には入れないとイエス様は言われました。

マタイの福音書
5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

重荷

この基準は、私たちにとって相当な重荷です。

しかし安心してください。その重荷を負った人が招かれているのです。

マタイの福音書
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

重荷を負っていない人、基準に従わない人は、招かれていません。

イエス様を十字架につけた自分の罪が嫌いになり、完全な者になりたいと願う人、そのような人にだけ、特別な契約が与えられるのです。

それが、新約です。

新約

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

私たちの中に十戒じっかいが納められ、私たちは神の宮となるのです。

コリント人への手紙 第一
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

思い出してください。神の宮に納められたのは、十戒じっかいだけでした。
十戒じっかいのない宮に、神の霊は住まわれません。

十戒じっかいが特別な律法である最大の理由がこれです。
十戒じっかいは、私たちが神の宮となるために納められるべき、唯一の契約なのです。

申命記
4:13 主はその契約を述べて、それを行うように、あなたがたに命じられた。それはすなわち十誡じっかいであって、主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。

おわりに

なぜ十戒じっかいが大切なのか、おわかりいただけたでしょうか。

十戒じっかいは、世の初めからすべての人に定められた神の義であり、永遠の律法です。また、私たちが神との関係を築くために、心に納められるべき唯一の契約なのです。

しゅは、これを私たちの心に書き記すと言ってくださるのです。
この恵みを拒む理由があるでしょうか。

恵みを受けるためにも、まずは正しい教えに立ち返りましょう。
それには、自分の目で聖書から確かめるしかありません。

神学をみにせず、またこのブログもみにせず、はたしてそのとおりかどうか、聖書から確認しましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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