愛と戒めとキリストの関係
はじめに
聖書は、三つの大切なことを教えてくれます。
それは、愛と、戒めと、唯一の神についてです。
この三つは、どのように関係しているのでしょうか。
ご一緒に聖書から調べてみましょう。
神は愛なり
神は愛であると聖書は教えます。
これは当たり前のこととして感謝もなく受け入れられていますが、よく考えてみたらどうでしょう。
神が愛でなければいけないというルールはどこにもないのです。
もし私たちの創造主が悪魔だったらどうでしょう。私たちを地獄の火で永遠に苦しめることを願う者が、私たちの創造主であったなら──
そうだったかもしれないと思うと、ぞっとしますよね。
感謝なことに、私たちの創造主は悪魔とは正反対のお方です。
この世界の創造主は、すべての人を愛しています。
これは驚くべきことであり、どれだけ感謝しても、感謝しきれないほどの恵みではないでしょうか。
戒めは愛なり
戒めは愛であると聖書は教えます。
神の戒めどおりに歩むことが、愛なのです。
これはイエス様の歩みそのものでした。
十戒は、神を愛する方法と、隣人を愛する方法を教えてくれるものです。それを守ることこそ、聖書の教える愛なのです。
ここで再び考えてみてください。
戒めは愛なり。このことに感謝を覚えたことはあるでしょうか。
もしも、私たちの守るべき戒めが、愛でなかったらどうでしょう。憎しみ、混乱、非道、暴力を教えるものだったらどうでしょう。
その場合、殺されるべきは、ノアであり、ロトだったのです。人類は、洪水前の悪人たち、また、ソドムやゴモラの子孫となっていたでしょう。
それがどれほど恐ろしく、住みにくい世界であるか、想像できるでしょうか。
感謝なことに、神の戒めは愛そのものです。
これがどれほどの恵みであるか、いつも心に留めておきましょう。
言葉は神なり
言葉は神だと教えられています。
神に従うとは、その言葉に従うことです。
だからこそ、聖書は次のように命じているのです。
これは基本中の基本であり、
これこそが、私たちの生きる道です。
そして私たちを生かすパンとは、イエス・キリストなのだと教えられています。
このように、イエス・キリストは言葉そのものです。
その言葉を信じ、従うことによって、私たちは生きるようにできているのです。
すべては愛
キリストは愛であり、戒めも愛です。
また、言葉は神であり、その言葉とはキリストなのです。
愛と、戒めと、キリスト。これらはすべて同一であるということです。
だからこそ、次のように教えられているのです。
私たちが戒めを守ることで、イエス・キリストを知っていることがわかるのです。
反対に、戒めを守らない人は偽クリスチャンであり、真理はその人のうちにないと聖書は教えます。
唯一の神イエス・キリストの言葉を守る人だけが、神の愛を全うし、その方のうちにいると認められるのです。
これが聖書の教えであることを覚えてください。
おわりに
愛と戒めとキリストの関係をおわかりいただけたでしょうか。
愛、戒め、キリスト。これらは同一であり、これにつながる人だけが、神に属する者だと聖書は教えているのです。
それなのに、現代の教会は「神の戒め」を軽視する傾向にあります。それがどういうことか、考えてみたことはあるでしょうか。
それは愛を軽視することであり、唯一の神イエス・キリストを軽視することなのです。
人の教えしか聞いてこなかった方は、今日、聖書の言葉を確認してみてください。
今は「聖書検索アプリ」などの便利なツールもあります。
それらを使って「神の戒め」と検索してみてください。
弟子たちがこれをどれほど重視していたかがわかるでしょう。
現代、神の法に服する人はほとんどいなくなり、「信じるだけで救われる」という教えがはびこっています。
これは預言されていたことでした。
このとおり、人々の愛は冷え切っています。
どうか目を覚ましてください。謙遜になるのは今です。
私たちはプライドを捨てて、長年の間違いを認める必要があります。
もう、泥の中を転がっている場合ではありません。
間もなく主が来られます。
今のうちに神の言葉を受け入れてください。
神に立ち返らない人を、主が勝手に治療することはないからです。
幼子のようになって、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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