私が十戒を守る理由
はじめに
かつての私は、モーセ律法はおろか、十戒さえ守っていませんでした。
いや、なんとなく守ってはいたのかもしれません。
けれど、熱心に守ったりはしていませんでした。
安息日については、完全に無視です。
理由はありません。周りの人に倣っていただけです。
そんな私が、今は十戒を守っています。
一体、なぜでしょうか。
一個人の意見に過ぎませんが、誰かの参考になればと思い、お話しいたします。
きっかけ
私が十戒を意識するようになったのは、聞いてきた教え以外にも、たくさんの異なる教えがあるのを知ったからです。
一体、そのうちのどれが正しいのだろうかと、私は悩みました。
そうしてわかったことは、聖霊の助けによって、自分の目で聖書を読むしかないということでした。
とはいえ、何年も聞き続けてきた教えのせいで、もはや自分の目で聖書を読むことは難しくなっていました。
「律法は終わった」「律法は守らなくてよい」「行いも不要だ」
そのように考えながら読んでしまうのです。
そこから解放されるには、神様の力と、自らの努力が必要でした。
この門は、本当に狭き門です。
入るには、間違った教えをすべて捨てて、真理に立たなければなりません。
ですから、こう意気込んで聖書を読むのです。
「どんなことが書いてあっても、そのまま『はい』と答えるぞ」
すると、次々に私の思い違いは修正されていきました。
十戒こそが、神と隣人を愛する方法である
律法に関しては、次の答えに行き着きました。
キリストの律法、すなわち私たちが守るべき新しい戒めは、十戒の集約であり、十戒のどんな戒めも、互いに愛し合うことによって全うされるのだ、と。
殺したり、盗んだりしながら、人を愛することはできません。
偶像を拝んだり、安息日を無視したりしながら、神を愛することはできません。
十戒こそが、神と隣人への愛を教えるものだからです。
ゆえに私は、キリストの律法の中にある者として、心においても十戒を守るようになりました。
これはパウロと同じ状態です。
一方、モーセ律法は守っていません。
これもまた、聖書から読み取った結果です。
十戒とモーセ律法を区別する理由
十戒をモーセ律法の一部だと考える人もいますが、私は区別して考えています。
理由の一つは、モーセ律法が古代イスラエルの民を意識した律法であるのに対し、十戒は世の初めから終わりまで、人類全体の罪を指し示すために用いられるからです。
聖書を読めばわかるとおり、モーセが石の板を授かる前から、殺人や姦淫は罪とされ、第七日目の安息日は聖別されていました。
これは人類すべてを対象にしたものだからです。
一方、モーセ律法は、あとから加えられたものであり、土地や奴隷に関する命令を見ればわかるとおり、古代イスラエルの生活様式を意識したものです。
十戒と相反するモーセ律法の命令
十戒とモーセ律法は、相反する場合があります。
これについては、パリサイ人のあいだでも問題になっていたようです。
そこで彼らは、主を試そうとして、この問題を突きつけました。
イエス様は、いとも簡単に答えられました。「初めからそうではなかった」
これが答えです。
モーセ律法は、「妻を出す場合には離縁状を渡せ」と教えますが、
神の律法は、それを姦淫だと教えます。
ここから、モーセ律法は、その時代だけの民族的特例だとわかります。
死刑に関する命令
モーセ律法には「殺さなければならない」との命令がいくつもあります。
現代、これを守っている人はいないと思います。
とはいえ、人間の都合で、守るべき律法を取捨選択してもよいのでしょうか。
繰り返しますが、私はモーセ律法を守っていません。
守らない理由はただ一つ。これが「初めから」の律法ではなく、あとから加えられた民族的特例だと考えるからです。
この律法の有効期限については、次の聖句が参考になるかと思います。
モーセ律法を守る場合の注意点
モーセ律法を自主的に守ることは、けっして悪いことではありません。
私自身、モーセ律法に書かれたことを、いくつか実践しています。
とはいえ、義とされるために守ろうとしてはいけません。
この律法が有効であると考えるなら、律法の全部を行う義務が生じます。
これは自主的なものであり、守ろうが守るまいが、問題ではありません。
大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。
モーセ律法を守る場合、他者への配慮も大切だと教えられています。
飲食のことで、兄弟をキリストから離れさせてしまうなら、何にもなりません。
実際、そのために教会から離れてしまう人がいることを覚えてください。
守っていることをひけらかしたり、勧めたりは、しないほうがいいでしょう。
十戒は終わったという人たち
十戒をモーセ律法と区別せず、十戒まで廃されたという人たちがいます。
かつての私もそうでした。
ところが彼らは、「殺すな」「姦淫するな」などの戒めは有効だと言います。
どういうことでしょうか。
彼らは言います。「キリストが、安息日以外の九つの戒めについて教えたからだ」と。
気をつけてください。これは人の教えです。聖書の教えではありません。
実際、自分の目で確かめた人が、一人でもいるでしょうか。
キリストは、「安息日は人のためにある(マルコ2:27)」と教えています。
また、「人の子は安息日の主である(マタイ12:8)」と教えています。
すると彼らはこう言います。「それは十字架以前のことだ」
なぜ安息日だけが、十字架以前のことになるのでしょうか。
「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ(マタイ24:20)」とは、明らかに十字架後についての教えです。
九つの戒めだけを有効とする本当の理由は何でしょうか。
誰もが、本当はわかっているはずです。
その理由は、教会が安息日を守ってこなかったことを、間違いだと認めたくないからにほかなりません。
この二心を、神様はいつまでも許容されないことを覚えてください。
おわりに
今回、皆さんにお話ししたのは、参考になればと思ったからです。
とはいえ、これらの説明を、鵜呑みにしないでほしいのです。
これはあくまでも、私の聖書解釈だからです。
人の話を鵜呑みにするなら、それは祭司や律法学者にそそのかされて、主を十字架につけてしまった人々と同じです。
主に従いたいなら、必ず自分の目で聖書を読む必要があることを覚えてください。
そうしない人は、神に従っているのではなく、人に従っているのです。
私たちが教師と呼んでよいのは、キリストだけです。
狭き門に入りたければ、人の教えを残らず捨てて、自分の目で聖書を確かめてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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