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私が十戒を守る理由

はじめに

かつての私は、モーセ律法はおろか、十戒じっかいさえ守っていませんでした

いや、なんとなく守ってはいたのかもしれません。
けれど、熱心に守ったりはしていませんでした。

安息日については、完全に無視です。
理由はありません。周りの人に倣っていただけです。

そんな私が、今は十戒じっかいを守っています

一体、なぜでしょうか。

一個人の意見に過ぎませんが、誰かの参考になればと思い、お話しいたします。

きっかけ

私が十戒じっかいを意識するようになったのは、聞いてきた教え以外にも、たくさんの異なる教えがあるのを知ったからです。

一体、そのうちのどれが正しいのだろうかと、私は悩みました。

そうしてわかったことは、聖霊の助けによって、自分の目で聖書を読むしかないということでした。

とはいえ、何年も聞き続けてきた教えのせいで、もはや自分の目で聖書を読むことは難しくなっていました。
「律法は終わった」「律法は守らなくてよい」「行いも不要だ」
そのように考えながら読んでしまうのです。

そこから解放されるには、神様の力と、自らの努力が必要でした。

ルカの福音書
13:24 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。

聖書 新改訳1970

この門は、本当に狭き門です。
入るには、間違った教えをすべて捨てて、真理に立たなければなりません。

ですから、こう意気込んで聖書を読むのです。
「どんなことが書いてあっても、そのまま『はい』と答えるぞ」

すると、次々に私の思い違いは修正されていきました

十戒じっかいこそが、神と隣人を愛する方法である

律法に関しては、次の答えに行き着きました。

キリストの律法、すなわち私たちが守るべき新しい戒めは、十戒じっかいの集約であり、十戒じっかいのどんな戒めも、互いに愛し合うことによって全うされるのだ、と。

ローマ人への手紙
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

殺したり、盗んだりしながら、人を愛することはできません。
偶像を拝んだり、安息日を無視したりしながら、神を愛することはできません。

十戒じっかいこそが、神と隣人への愛を教えるものだからです。
ゆえに私は、キリストの律法の中にある者として、心においても十戒じっかいを守るようになりました。

これはパウロと同じ状態です。

コリント人への手紙 第一
9:21 ──わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが──

一方、モーセ律法は守っていません。
これもまた、聖書から読み取った結果です。

十戒じっかいとモーセ律法を区別する理由

十戒じっかいをモーセ律法の一部だと考える人もいますが、私は区別して考えています。

理由の一つは、モーセ律法が古代イスラエルの民を意識した律法であるのに対し、十戒じっかいは世の初めから終わりまで、人類全体の罪を指し示すために用いられるからです。

聖書を読めばわかるとおり、モーセが石の板を授かる前から、殺人姦淫かんいんは罪とされ、第七日目の安息日は聖別されていました。

これは人類すべてを対象にしたものだからです。

一方、モーセ律法は、あとから加えられたものであり、土地や奴隷に関する命令を見ればわかるとおり、古代イスラエルの生活様式を意識したものです。

十戒じっかいと相反するモーセ律法の命令

十戒じっかいとモーセ律法は、相反する場合があります。

これについては、パリサイ人のあいだでも問題になっていたようです。
そこで彼らは、しゅを試そうとして、この問題を突きつけました。

マタイの福音書
19:7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

イエス様は、いとも簡単に答えられました。「初めからそうではなかった」
これが答えです。

モーセ律法は、「妻を出す場合には離縁状を渡せ」と教えますが、
神の律法は、それを姦淫かんいんだと教えます。

ここから、モーセ律法は、その時代だけの民族的特例だとわかります。

死刑に関する命令

モーセ律法には「殺さなければならない」との命令がいくつもあります。

申命記
22:22 もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。

現代、これを守っている人はいないと思います。
とはいえ、人間の都合で、守るべき律法を取捨選択してもよいのでしょうか。

マタイの福音書
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう──

繰り返しますが、私はモーセ律法を守っていません。
守らない理由はただ一つ。これが「初めから」の律法ではなく、あとから加えられた民族的特例だと考えるからです。

この律法の有効期限については、次の聖句が参考になるかと思います。

ガラテヤ人への手紙
3:17 わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。
(途中省略)
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

モーセ律法を守る場合の注意点

モーセ律法を自主的に守ることは、けっして悪いことではありません。
私自身、モーセ律法に書かれたことを、いくつか実践しています。

とはいえ、義とされるために守ろうとしてはいけません。
この律法が有効であると考えるなら、律法の全部を行う義務が生じます。

ガラテヤ人への手紙
5:3 割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある

これは自主的なものであり、守ろうが守るまいが、問題ではありません。
大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。

コリント人への手紙 第一
7:19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのは、ただ神の戒めを守ることである

モーセ律法を守る場合、他者への配慮も大切だと教えられています。

ローマ人への手紙
14:13 それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。
14:14 わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
14:15 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。
14:16 それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

飲食のことで、兄弟をキリストから離れさせてしまうなら、何にもなりません。
実際、そのために教会から離れてしまう人がいることを覚えてください。

守っていることをひけらかしたり、勧めたりは、しないほうがいいでしょう。

十戒じっかいは終わったという人たち

十戒じっかいをモーセ律法と区別せず、十戒じっかいまで廃されたという人たちがいます。
かつての私もそうでした。

ところが彼らは、「殺すな」「姦淫かんいんするな」などの戒めは有効だと言います。

どういうことでしょうか。

彼らは言います。「キリストが、安息日以外の九つの戒めについて教えたからだ」と。

気をつけてください。これは人の教えです。聖書の教えではありません
実際、自分の目で確かめた人が、一人でもいるでしょうか。

キリストは、「安息日は人のためにある(マルコ2:27)」と教えています。
また、「人の子は安息日のしゅである(マタイ12:8)」と教えています。

すると彼らはこう言います。「それは十字架以前のことだ」

なぜ安息日だけが、十字架以前のことになるのでしょうか。

「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ(マタイ24:20)」とは、明らかに十字架後についての教えです。

九つの戒めだけを有効とする本当の理由は何でしょうか。
誰もが、本当はわかっているはずです。

その理由は、教会が安息日を守ってこなかったことを、間違いだと認めたくないからにほかなりません。
この二心ふたごころを、神様はいつまでも許容されないことを覚えてください。

おわりに

今回、皆さんにお話ししたのは、参考になればと思ったからです。

とはいえ、これらの説明を、みにしないでほしいのです。
これはあくまでも、私の聖書解釈だからです。

人の話をみにするなら、それは祭司や律法学者にそそのかされて、しゅを十字架につけてしまった人々と同じです。

しゅに従いたいなら、必ず自分の目で聖書を読む必要があることを覚えてください。
そうしない人は、神に従っているのではなく、人に従っているのです。

マタイの福音書
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

私たちが教師と呼んでよいのは、キリストだけです。

狭き門に入りたければ、人の教えを残らず捨てて、自分の目で聖書を確かめてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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