パウロは偽使徒なのか
はじめに
パウロを偽使徒だと教える人たちがいます。
パウロが、まるでイエス様と異なる教えを述べているように感じられるからです。
気持ちはわかりますが、これは間違った考え方です。
今、慎重に、聖書から確認してみましょう。
律法廃止論
パウロを偽使徒とする教えは、「パウロが律法を無効とした」という誤解からきています。
律法について、イエス様は次のように言っておられます。
一方、パウロは次のように言っています。
まるで真逆のことを言っているようですが、そうではありません。
イエス様が、初めからある律法について教えられたのに対し、パウロは、あとから加えられた律法について語っているのです。
殺すな、姦淫するなと書かれたとき、それは十戒を指します。
これは初めからある律法、永遠の原則なのです。けっして、モーセが石の板を授かったときに考え出されたものではありません。
この律法については、パウロも同じ意見を述べています。
パウロは、断じて、律法廃止論を述べてなどいません。
使徒とは
使徒とは何でしょう。
原文では、アポストロス。代表者や、メッセンジャーという意味です。
使徒には二種類あります。
まずは、イエス様の選んだ十二使徒。これは大使徒とも呼ばれます。
それから、小使徒がいます。(実際には小使徒という言葉は出て来ません)
大使徒となる条件
大使徒となるには、条件があります。
これが大使徒となる条件です。
確かに、パウロはこの条件に当てはまりません。
だからといって、偽使徒と決めつけるには早すぎます。
パウロは自分のことを、大使徒とは区別しています。そのうえで、優劣などないことを訴えているのです。
使徒となったパウロ
パウロは、イエス・キリストから直接任命された使徒です。
その任命の様子は、ルカによって「使徒の働き」に記されています。
当然、ルカはその書の中で、パウロを使徒と認めています。
このルカの記述を疑うなら、ルカの福音書までも、信憑性のないものとすることになります。
ペテロの証言
ペテロは、パウロについて次のように証言しています。
まず、パウロを愛する兄弟と呼んでいます。
また、パウロ書簡には理解しにくいところがあるものの、同じことを語っていると認めています。
もし、パウロを偽物だと見なすなら、パウロ書簡はおろか、使徒の働き、ルカの福音書、ペテロの手紙、それらすべてを信憑性のないものとしなければなりません。
つまり、新約聖書は概ね信用がならない、ということになります。
これはとんでもない考えです。神様の愛を疑う行為です。
神様の愛
神様は、どのような人も愛しておられ、その全員が真理に至ることを望んでおられます。
その神様の意に反して、サタンがこっそりと聖書を書き換えることなど可能でしょうか。
いいえ。
ヨブ記を見ればわかるとおり、サタンは、神様の許可なしには何事もすることはできません。
パウロが偽使徒というなら、神様は聖書を守らなかったということになります。
すべての人が救われ、真理に至ることを望む神様が、聖書を守らないなどということがありえるでしょうか。
最も信頼できる方、それは人ではなく、神です。
この方を信頼するところから、私たちの歩みは始まるのではないでしょうか。
今、人の教えを捨て、謙遜になって、パウロ書簡を読み直してみましょう。
理解しにくいところはあるものの、必ず主と同じことを語っているのがわかるはずです。
おわりに
神様は、私たちが真理に至ることを望んでおられます。
「自分の理解と違うから、聖書のほうが間違っている」
これはとても危険な態度です。
永遠の律法と、一時的な律法。
この二つが存在することを素直に認めるなら、聖書を正しく読めるはずです。
私たちが神の宮となるとき、そこに納められる律法が十戒であることは、聖書を読めばわかるはずです。
この律法が心に書きつけられるなら、私たちは必ず良い実を結びます。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などの実が結ばれていないなら、その人の教えは間違っているのです。
このブログを含め、人の教えは、間違いだらけです。
しかし、聖書に間違いはありません。
人の教えを手放して、聖書を信じましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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