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パウロは偽使徒なのか

はじめに

パウロをにせ使徒だと教える人たちがいます。

パウロが、まるでイエス様と異なる教えを述べているように感じられるからです。

気持ちはわかりますが、これは間違った考え方です。

今、慎重に、聖書から確認してみましょう。

律法廃止論

パウロをにせ使徒とする教えは、「パウロが律法を無効とした」という誤解からきています。

律法について、イエス様は次のように言っておられます。

マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。

一方、パウロは次のように言っています。

ガラテヤ人への手紙
3:19 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。

まるで真逆のことを言っているようですが、そうではありません。

イエス様が、初めからある律法について教えられたのに対し、パウロは、あとから加えられた律法について語っているのです。

マタイの福音書
19:8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった
19:9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。

殺すな、姦淫かんいんするなと書かれたとき、それは十戒じっかいを指します。
これは初めからある律法永遠の原則なのです。けっして、モーセが石の板を授かったときに考え出されたものではありません。

この律法については、パウロも同じ意見を述べています。

ローマ人への手紙
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

パウロは、断じて、律法廃止論を述べてなどいません。

ローマ人への手紙
3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

使徒とは

使徒とは何でしょう。

原文では、アポストロス。代表者や、メッセンジャーという意味です。

使徒には二種類あります。

まずは、イエス様の選んだ十二使徒。これは大使徒とも呼ばれます。
それから、小使徒がいます。(実際には小使徒という言葉は出て来ません)

大使徒となる条件

大使徒となるには、条件があります。

使徒の働き
1:22 すなわち、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」。

これが大使徒となる条件です。

確かに、パウロはこの条件に当てはまりません。
だからといって、にせ使徒と決めつけるには早すぎます。

パウロは自分のことを、大使徒とは区別しています。そのうえで、優劣などないことを訴えているのです。

コリント人への手紙 第二
11:5 事実、わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。

使徒となったパウロ

ローマ人への手紙
1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから──

パウロは、イエス・キリストから直接任命された使徒です。
その任命の様子は、ルカによって「使徒の働き」に記されています。

当然、ルカはその書の中で、パウロを使徒と認めています。

使徒の働き
14:14 ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き──

このルカの記述を疑うなら、ルカの福音書までも、信憑性しんぴょうせいのないものとすることになります。

ペテロの証言

ペテロは、パウロについて次のように証言しています。

ペテロの手紙 第二
3:15 また、私たちのしゅの忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。
3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

まず、パウロを愛する兄弟と呼んでいます。

また、パウロ書簡には理解しにくいところがあるものの、同じことを語っていると認めています。

もし、パウロをにせ物だと見なすなら、パウロ書簡はおろか、使徒の働き、ルカの福音書、ペテロの手紙、それらすべてを信憑性しんぴょうせいのないものとしなければなりません。
つまり、新約聖書はおおむね信用がならない、ということになります。

これはとんでもない考えです。神様の愛を疑う行為です。

神様の愛

テモテへの手紙 第一
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。

神様は、どのような人も愛しておられ、その全員が真理に至ることを望んでおられます。

その神様の意に反して、サタンがこっそりと聖書を書き換えることなど可能でしょうか。

いいえ。
ヨブ記を見ればわかるとおり、サタンは、神様の許可なしには何事もすることはできません。

パウロがにせ使徒というなら、神様は聖書を守らなかったということになります。

すべての人が救われ、真理に至ることを望む神様が、聖書を守らないなどということがありえるでしょうか。

最も信頼できる方、それは人ではなく、神です
この方を信頼するところから、私たちの歩みは始まるのではないでしょうか。

今、人の教えを捨て、謙遜になって、パウロ書簡を読み直してみましょう。
理解しにくいところはあるものの、必ずしゅと同じことを語っているのがわかるはずです。

おわりに

神様は、私たちが真理に至ることを望んでおられます。

「自分の理解と違うから、聖書のほうが間違っている」
これはとても危険な態度です。

永遠の律法と、一時的な律法
この二つが存在することを素直に認めるなら、聖書を正しく読めるはずです。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。

私たちが神の宮となるとき、そこに納められる律法が十戒じっかいであることは、聖書を読めばわかるはずです。

列王記 第一
8:9 箱の内には二つの石の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエジプトの地から出たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブで、それに納めたものである。

この律法が心に書きつけられるなら、私たちは必ず良い実を結びます。

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などの実が結ばれていないなら、その人の教えは間違っているのです。

このブログを含め、人の教えは、間違いだらけです。
しかし、聖書に間違いはありません。

人の教えを手放して、聖書を信じましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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