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本当の救いの確信

はじめに

あなたは救いの確信を得ていますか?

救いの確信とは何でしょう。

ある人は、信じた人はすでに神の子とされており、それによって救いが確定しているのだと教えます。その確定を疑うことは不信仰であり、であるとさえ教えます。

それが救いの確信なのでしょうか。

ご一緒に、聖書から確認してみましょう。

神の子とされる特権

ヨハネの福音書
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(別訳:特権、資格)を与えたのである。

確かに、私たちは神の子とされる特権を得ています。
というのも、私たちはキリスト・イエスと婚約状態にあるからです。

配偶者となるわけですから、御子みこであるキリストとともに神の子と呼ばれ、神の国を相続できる状態にあります。

とはいえ、これを救いの確定と断言していいのでしょうか。

救いは確定していない

ペテロの手紙 第二
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる

ヘブル人への手紙
10:26 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。

ヘブル人への手紙
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。

ルカの福音書
8:13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。

このとおり、聖書は、私たちの救いが確定しているなどとは教えていません。

次の聖句は、救いの確定を教える教会で、頻繁に語られる聖句です。

ローマ人への手紙
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

これはけっして、口から音を出すだけで救いが確定すると言っているのではありません。

しゅの御名を呼び求める」とは、
その方を主人と認め、最後まで従順に従い通すことです。

ですから、次のように言われているのです。

マタイの福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

あなたは、「キリストにはすべてを捨てて従う価値がある」と確信し、行動していますか?

この確信を最後まで持ち続けるなら、救われると聖書は教えているのです。

ヘブル人への手紙
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。

失格者

先ほど確認したように、天国へ入るのは、父の御旨みむねを行う者だけです。

行いがないなら、どうなるでしょう。

テトスへの手紙
1:16 彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。

そのような人を、聖書は失格者と呼びます。

パウロも、自分自身について、こう語っています。

コリント人への手紙 第一
9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです

聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

これを無視する教理は、けっしてキリストにつながるものではないことを覚えてください。

用意をしなさい

私たちは婚約状態なのであって、婚宴のときはまだ来ていません。

用意をしないなら、その人は自ら婚約者の資格を投げ捨ててしまうことになります。

マタイの福音書
24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。

マタイの福音書
25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。

ヨハネの黙示録
19:7 わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである
19:8 彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。

用意とは、正しい行いを身に付けることです。

私たちは行いによって救われるのではありませんが、
信仰の確かさは、行いによって証明されるのです。

ヤコブの手紙
2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである

用意をしていない人

正しい行いを用意していないなら、どうなると聖書は教えているでしょうか。

コリント人への手紙 第一
6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。

ガラテヤ人への手紙
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない

エペソ人への手紙
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない

こんなにも、相続権が失われる可能性を、聖書は教えているのです。

このことに、私たちは危機感を覚える必要があります。
今、神への恐れが消えかけているからです。

罪をゆるされた人が皆、天国へ入るのではありません。
私たちは聖書を信じるか、人の教えを信じるか、選ぶべきときに来ています。

本当の救いの確信

聖書は明らかに、私たちの救いは確定していないと教えます。

すると私たちは、救いの確信を得ることはできないのでしょうか。

そんなことはありません。

ヨハネの手紙 第一
2:3 もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである
2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。
2:5 しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである

神の戒めを守り神の愛が真に全うされているなら、私たちはキリストとの婚約状態を保っていることを確信できます。

とはいえ、うわべだけ律法を守っても意味がありません。
律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、けっして天国へは入れないのです(マタイ5:20)。

どうか、この教えの基準に心から服従し、キリストの義を受け取ってください。
そのような人だけが、次の約束にあずかるのです。

ローマ人への手紙
8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない

これこそ、聖書の教える、本当の救いの確信です。

おわりに

神の愛は不変です。
その愛は、私たちが罪人であろうと、義人であろうと、変わりません。
この愛から私たちを引き離すものは何もありません。

それでも、神様は不正な裁きをなさらないのです。
愛する人を無罪にするような裁判官は、公正な裁判官とは言えないからです。

ところで、私たちには最高の弁護士がついています。

ヨハネの手紙 第一
2:1 わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主(別訳:弁護者)、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。

この弁護士は、まず私たちを指して、「この人は罪を犯さない者に変わっている」と言ってくださいます。

するとサタンが訴えます。「そうだとしても、この者は罪を犯した。必ず裁かれなければならない」

すると弁護士が答えます。「その罪はすべて私があがなった」

こうして、私たちはサタンの訴えに勝利するのです。
そこに、一切の偽証はありません。

そのためにも、神の戒めを守り、義に生きる者となりましょう。

失敗してもいいのです
イエス様が罪を負ってくださったので、私たちは罪に定められません。
罪に定められるとすれば、あえてこの歩みをせず、罪を悔い改めなかったときだけです。

気をつけなければならないのは、無律法主義です。
罪とは、律法に違反することだからです(第一ヨハネ3:4)。
罪を犯しても構わないと思うなら、裁きを免れないことを覚えてください。

このブログを信じる必要はまったくありません。
人の教えをすべて捨て去って、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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