本当の救いの確信
はじめに
あなたは救いの確信を得ていますか?
救いの確信とは何でしょう。
ある人は、信じた人はすでに神の子とされており、それによって救いが確定しているのだと教えます。その確定を疑うことは不信仰であり、罪であるとさえ教えます。
それが救いの確信なのでしょうか。
ご一緒に、聖書から確認してみましょう。
神の子とされる特権
確かに、私たちは神の子とされる特権を得ています。
というのも、私たちはキリスト・イエスと婚約状態にあるからです。
配偶者となるわけですから、御子であるキリストとともに神の子と呼ばれ、神の国を相続できる状態にあります。
とはいえ、これを救いの確定と断言していいのでしょうか。
救いは確定していない
このとおり、聖書は、私たちの救いが確定しているなどとは教えていません。
次の聖句は、救いの確定を教える教会で、頻繁に語られる聖句です。
これはけっして、口から音を出すだけで救いが確定すると言っているのではありません。
「主の御名を呼び求める」とは、
その方を主人と認め、最後まで従順に従い通すことです。
ですから、次のように言われているのです。
あなたは、「キリストにはすべてを捨てて従う価値がある」と確信し、行動していますか?
この確信を最後まで持ち続けるなら、救われると聖書は教えているのです。
失格者
先ほど確認したように、天国へ入るのは、父の御旨を行う者だけです。
行いがないなら、どうなるでしょう。
そのような人を、聖書は失格者と呼びます。
パウロも、自分自身について、こう語っています。
これを無視する教理は、けっしてキリストにつながるものではないことを覚えてください。
用意をしなさい
私たちは婚約状態なのであって、婚宴のときはまだ来ていません。
用意をしないなら、その人は自ら婚約者の資格を投げ捨ててしまうことになります。
用意とは、正しい行いを身に付けることです。
私たちは行いによって救われるのではありませんが、
信仰の確かさは、行いによって証明されるのです。
用意をしていない人
正しい行いを用意していないなら、どうなると聖書は教えているでしょうか。
こんなにも、相続権が失われる可能性を、聖書は教えているのです。
このことに、私たちは危機感を覚える必要があります。
今、神への恐れが消えかけているからです。
罪を赦された人が皆、天国へ入るのではありません。
私たちは聖書を信じるか、人の教えを信じるか、選ぶべきときに来ています。
本当の救いの確信
聖書は明らかに、私たちの救いは確定していないと教えます。
すると私たちは、救いの確信を得ることはできないのでしょうか。
そんなことはありません。
神の戒めを守り、神の愛が真に全うされているなら、私たちはキリストとの婚約状態を保っていることを確信できます。
とはいえ、うわべだけ律法を守っても意味がありません。
律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、けっして天国へは入れないのです(マタイ5:20)。
どうか、この教えの基準に心から服従し、キリストの義を受け取ってください。
そのような人だけが、次の約束に与るのです。
これこそ、聖書の教える、本当の救いの確信です。
おわりに
神の愛は不変です。
その愛は、私たちが罪人であろうと、義人であろうと、変わりません。
この愛から私たちを引き離すものは何もありません。
それでも、神様は不正な裁きをなさらないのです。
愛する人を無罪にするような裁判官は、公正な裁判官とは言えないからです。
ところで、私たちには最高の弁護士がついています。
この弁護士は、まず私たちを指して、「この人は罪を犯さない者に変わっている」と言ってくださいます。
するとサタンが訴えます。「そうだとしても、この者は罪を犯した。必ず裁かれなければならない」
すると弁護士が答えます。「その罪はすべて私が贖った」
こうして、私たちはサタンの訴えに勝利するのです。
そこに、一切の偽証はありません。
そのためにも、神の戒めを守り、義に生きる者となりましょう。
失敗してもいいのです。
イエス様が罪を負ってくださったので、私たちは罪に定められません。
罪に定められるとすれば、あえてこの歩みをせず、罪を悔い改めなかったときだけです。
気をつけなければならないのは、無律法主義です。
罪とは、律法に違反することだからです(第一ヨハネ3:4)。
罪を犯しても構わないと思うなら、裁きを免れないことを覚えてください。
このブログを信じる必要はまったくありません。
人の教えをすべて捨て去って、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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