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何のために生きるか

はじめに

あなたは何のために生きているでしょうか。

多くの人は、死なないために、ただ生きているのかもしれません。

楽しむために生きているなら、まだ良いほうです。

けれども将来に不安があっては、心から楽しむことはできません。

それで結局、不安をなくすために働き、蓄えるのです。

しかし、終わりが来ます。

それなら一体、私たちは何のために生きるのでしょう。

聖書だけが、この答えを教えてくれます。

私たちの造られた目的

結論から見てみましょう。

エペソ人への手紙
2:10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

私たちが造られたのは、良い行いをするためです。

ところがアダム以来、人に死が入り込み、私たちは安心して良い行いに尽くすことができなくなりました。

ローマ人への手紙
5:12 このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである

以来、私たちは死なないために生きるようになってしまったのです。

死なないために生きる

その生き方の空しいことを、しゅは次のように言われました。

ルカの福音書
12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

私たちも、遅かれ早かれ、必ずこの結論に行き着きます。
これを聖書は「奴隷」と呼びます。
そしてこの鎖から解き放つために、しゅは来てくださったのです。

ヘブル人への手紙
2:14 ──それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである

新しい命に生きる

しゅは、私たちに永遠の命を約束し、生き方を変えてくださいました。

ローマ人への手紙
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

これこそが、新しく生まれるということです。

私たちはキリストとともに死に、永遠の命を生き始めたのです。
すなわち、キリストの死と復活を自分のこととして信じることで、もはや死なないために生きる必要がなくなるのです。

ローマ人への手紙
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

「だれひとり自分のために生きる者はなく」と書かれています。
これが本来のクリスチャンの姿なのです。

実際、彼らのおかげで福音は瞬く間に世界中に広がっていきました。

コリント人への手紙 第二
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである

現代の私たちはどうでしょう。彼らと同じでしょうか。
同じでないとしたら、キリストの死を無駄にしていることを覚えてください。

私たちに命じられた愛

「互いに愛し合いなさい」聖書は何度もそう教えます。

ヨハネの福音書
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない

この言葉どおり、しゅは私たちのために命をお捨てになりました

すると私たちも、友のために命を捨てるべきでしょうか

そのとおりです。

ヨハネの手紙 第一
3:16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである

教会がどんなにこれを否定しようとも、聖書がこう教えていることを覚えてください。

自分を捨て、自分の十字架を負う

しゅは、命を失う道と、命を救う道について、次のように教えられました。

マルコの福音書
8:34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
8:35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう

あなたは、しゅと福音のために命を失う者に該当していますか?

福音を伝えることは、しゅが私たちに命じられた商売です。
これを怠るなら、私たちは御国みくにから放り出されることになるでしょう。

マタイの福音書
25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

あなたの国籍

自分のために生きる人の国籍は、この世にあります。

ピリピ人への手紙
3:19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。

しかし、神の国と神の義のために生きる人の国籍は、にあります。

ピリピ人への手紙
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

彼らは復活を信じ、死を恐れず、しゅと隣人への愛によって生きています

そしてこれこそが、私たちの国籍を示す証拠なのです。

パウロが福音の三要素(死、埋葬、復活)を最も大事なことだと語り、これによって救われると説いたのは、じつにこのためです。

復活を信じる人は、もはやこの世の命を、しゅのために使い尽くすのみだからです。

そうなっていないとしたら、クリスチャンではありません。
復活を心から信じていないからです。

にせクリスチャン

生ぬるいクリスチャンは、御国みくにから放り出されます。
厳しく聞こえるでしょうが、聖書がそのように教えているのです。

ヨハネの黙示録
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう

救いの確信なら、救われていない人でも持つことができます。
洗礼や信仰告白は、私たちの国籍を変えません。
教会に通うことも、献金をすることも、国籍を変えません。
良い行いに励むことさえ、国籍を変えないのです。

私たちの国籍を変えるのは、聖書の言葉を余さず信じ、心に変化が起こること、それだけです。

そのような人は、憎まれても、罵られても、真理を宣べ伝えることをやめません。
罵られても罵り返さず、柔和で、親切です。良い行いをする中で、御霊みたまの実を結んでいるからです。

そうなることこそ、私たちの目標だということを覚えてください。

コリント人への手紙 第一
9:26 そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。
9:27 すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない

おわりに

何のために生きるか、その答えは見つかったでしょうか。

もちろん、聖書は誰の生き方をも強制はしません。

ただしゅに感謝し、兄弟にもその恵みを分け与えたいと思う人だけが、そのように生きるのです。

そして間違いなく、その生き方こそ、人に本当の喜びをもたらします。
その喜びは、死で終わってしまうものではないからです。

私たちは選ぶことができます、
死で終わる生き方をするか、永遠の生き方をするかを。

これを重荷だと思う人は、どうか聖書を読んでみてください。
そこに、重荷でも強制でもなく、自主的に喜んで従う人々の姿が見つかるはずです。

幼子のように心を開いて、聖書を読みましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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