何のために生きるか
はじめに
あなたは何のために生きているでしょうか。
多くの人は、死なないために、ただ生きているのかもしれません。
楽しむために生きているなら、まだ良いほうです。
けれども将来に不安があっては、心から楽しむことはできません。
それで結局、不安をなくすために働き、蓄えるのです。
しかし、終わりが来ます。
それなら一体、私たちは何のために生きるのでしょう。
聖書だけが、この答えを教えてくれます。
私たちの造られた目的
結論から見てみましょう。
私たちが造られたのは、良い行いをするためです。
ところがアダム以来、人に死が入り込み、私たちは安心して良い行いに尽くすことができなくなりました。
以来、私たちは死なないために生きるようになってしまったのです。
死なないために生きる
その生き方の空しいことを、主は次のように言われました。
私たちも、遅かれ早かれ、必ずこの結論に行き着きます。
これを聖書は「奴隷」と呼びます。
そしてこの鎖から解き放つために、主は来てくださったのです。
新しい命に生きる
主は、私たちに永遠の命を約束し、生き方を変えてくださいました。
これこそが、新しく生まれるということです。
私たちはキリストとともに死に、永遠の命を生き始めたのです。
すなわち、キリストの死と復活を自分のこととして信じることで、もはや死なないために生きる必要がなくなるのです。
「だれひとり自分のために生きる者はなく」と書かれています。
これが本来のクリスチャンの姿なのです。
実際、彼らのおかげで福音は瞬く間に世界中に広がっていきました。
現代の私たちはどうでしょう。彼らと同じでしょうか。
同じでないとしたら、キリストの死を無駄にしていることを覚えてください。
私たちに命じられた愛
「互いに愛し合いなさい」聖書は何度もそう教えます。
この言葉どおり、主は私たちのために命をお捨てになりました。
すると私たちも、友のために命を捨てるべきでしょうか。
そのとおりです。
教会がどんなにこれを否定しようとも、聖書がこう教えていることを覚えてください。
自分を捨て、自分の十字架を負う
主は、命を失う道と、命を救う道について、次のように教えられました。
あなたは、主と福音のために命を失う者に該当していますか?
福音を伝えることは、主が私たちに命じられた商売です。
これを怠るなら、私たちは御国から放り出されることになるでしょう。
あなたの国籍
自分のために生きる人の国籍は、この世にあります。
しかし、神の国と神の義のために生きる人の国籍は、天にあります。
彼らは復活を信じ、死を恐れず、主と隣人への愛によって生きています。
そしてこれこそが、私たちの国籍を示す証拠なのです。
パウロが福音の三要素(死、埋葬、復活)を最も大事なことだと語り、これによって救われると説いたのは、じつにこのためです。
復活を信じる人は、もはやこの世の命を、主のために使い尽くすのみだからです。
そうなっていないとしたら、クリスチャンではありません。
復活を心から信じていないからです。
偽クリスチャン
生ぬるいクリスチャンは、御国から放り出されます。
厳しく聞こえるでしょうが、聖書がそのように教えているのです。
救いの確信なら、救われていない人でも持つことができます。
洗礼や信仰告白は、私たちの国籍を変えません。
教会に通うことも、献金をすることも、国籍を変えません。
良い行いに励むことさえ、国籍を変えないのです。
私たちの国籍を変えるのは、聖書の言葉を余さず信じ、心に変化が起こること、それだけです。
そのような人は、憎まれても、罵られても、真理を宣べ伝えることをやめません。
罵られても罵り返さず、柔和で、親切です。良い行いをする中で、御霊の実を結んでいるからです。
そうなることこそ、私たちの目標だということを覚えてください。
おわりに
何のために生きるか、その答えは見つかったでしょうか。
もちろん、聖書は誰の生き方をも強制はしません。
ただ主に感謝し、兄弟にもその恵みを分け与えたいと思う人だけが、そのように生きるのです。
そして間違いなく、その生き方こそ、人に本当の喜びをもたらします。
その喜びは、死で終わってしまうものではないからです。
私たちは選ぶことができます、
死で終わる生き方をするか、永遠の生き方をするかを。
これを重荷だと思う人は、どうか聖書を読んでみてください。
そこに、重荷でも強制でもなく、自主的に喜んで従う人々の姿が見つかるはずです。
幼子のように心を開いて、聖書を読みましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)
こちらの記事も参考にどうぞ