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偽物クリスチャンだった私

はじめに

私は長年、にせ物のクリスチャンでした。

聖書は、このようなにせクリスチャンについて、はっきりと教えています。

私たちが滅びないために、しゅはこれらの言葉を残されたのです。

今日、慎んで、しゅの言葉を受け取りましょう。

罪についての基準

イエス様は、罪について、次のような基準を語られました。

マタイの福音書
5:21 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。

このような言葉について、十字架のあがないのゆえに、守らなくてもよくなったと私は思っていました。
「これらは人には不可能な基準だから、ゆるしてもらうしかないことを教えるために、イエス様はこう言われたのだ」そう教えられてきたのです。

しかし、本当にそうでしょうか。

兄弟を憎む者

弟子たちはどう認識していたでしょう。

ヨハネの手紙が、このことについて詳しく語っています。

ヨハネの手紙 第一
2:9 「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。

ヨハネの手紙 第一
4:20 「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。

イエス様が語られた基準を、弟子たちはそのまま受け取っていることに注意してください。
そればかりか、この基準に従っていない人を「偽り者」と呼んでいるのです。

私がにせ物のクリスチャンであった理由はこれです。
憎しみを、当たり前の感情の一つとして受け入れていたのです。

心においても戒めを守ること

聖書は、心においても十戒じっかいを守るようにと教えています。

ヨハネの手紙 第一
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない

十戒じっかいが心において守られていないなら、それはにせクリスチャンであり、永遠の命をとどめてはいない、と聖書は教えているのです。

ヨハネの手紙 第一
2:4 「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。

本物の教会と、にせ物の教会

聖書の基準に同意していないなら、それはにせ物の教会です。

ヨハネの手紙 第一
4:6 しかし、わたしたちは神から出たものである。神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き、神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない。これによって、わたしたちは、真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである。

「兄弟を憎んだところで、永遠の命は失われない」「あなた方の救いは確定している」そのように教える教会は、にせです。

本物のクリスチャンは、些細ささいな憎しみさえも、放置しません。彼らは熱心に悔い改め、二度とそのような罪を繰り返さないために、常にしゅの助けを求めているのです。

そのような人たちを見たとき、私は自分がにせであったことをはっきり悟りました。

信仰の吟味

コリント人への手紙 第二
13:5 あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる

けっして、にせ物として見捨てられてはいけません。

本物のクリスチャンは、世の人々とはまったく違う生き方をしています。
彼らは、些細ささいな罪さえも放置せず、熱心に祈り求めているのです。
自分の中に悔い改めていない罪がないかどうか、心を探り、聖霊の導きを請うているのです。

このような人は、けっして油を失うことはありません。

しかしそうしないなら、私たちから油はなくなってしまうでしょう。

マタイの福音書
25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。

たとえ教会に属していても、聖霊を失ってしまうなら、その人が天国へ行く保証は何もないのです。

テサロニケ人への手紙 第一
5:19 御霊を消してはいけない

おわりに

十戒じっかいを心において守らず、兄弟への憎しみを放置するなら、その人は偽り者だと聖書は教えます。

まずは、自分がにせクリスチャンになっていないかどうか、聖書から確認してみましょう。

ヨハネの手紙 第一
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

心の罪を放置していたことを告白し、悔い改めるなら、しゅは喜んで私たちをゆるしてくださるでしょう。
また私たちが求め続けるなら、しゅは喜んで助けをお与えくださるでしょう。
そうして瞬間瞬間を、しゅを必要としながら歩んでいくのです。

多くのクリスチャンが、間違った教えのために、にせクリスチャンとなっています。
今、聖書の教えに立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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